浴槽の怪
再び警察官の来邸を乞い、前同様捜索が行われたけれど、何の甲斐もなく、騒ぎが静まって、主客が又以前の食堂に対座した時は、もう夜の九時を過ぎていた。
「ほんとうに有難うございました。先生がいて下さらなければ、わたくし、今頃はこうしてお話なんかしていられなかったと思いますわ」
夏子は、食卓をかたづけさせ、蘭堂にお茶を勧めながら、やっと落ついた様に話し出した。
「イヤ、僕こそ。あの時あなたがピストルを撃って下さらなかったら、命がない所でした。それにしても、あなたの思い切った所置には敬服しました。一寸出来ない芸当ですよ」
蘭堂は心から命の恩を感じて、夏子を褒めたたえた。
「マア、どうしましょう。わたくし、あんな恥かしい様子をお目にかけて。……でも、ああでもしなければ、先生が危なかったのですもの」
「そうですとも、危なかったのです。あいつ本気で僕を殺そうとしていたのです」
「お互っこですわね。先生はあたしを助けて下さるし、あたしは先生をお救い申上げた訳ですわね。あたし何だか偶然でない様な気が致しますわ。こんな事がいつかあるのだという妙な予感を持って居りましたわ」
このうら若い未亡人は、互に救い救われしたことが、ひどく嬉し相である。
「アノ、本当にご迷惑でしょうけど、アノ、今夜お泊り下さる訳には行きません? 書生もまだ帰りませんし、若し先生でもいて下さらなければ、あたし、この家で眠る気が致しませんわ。ね、お願いですわ。それに、今からでは東京にお帰りになるのも大変なんですから」
夏子は甘える様に云って、蘭堂を見上た。
「エエ、僕は泊めて頂ければ有難いですけれど、ご婦人お一人のうちへ、あまり不躾ですから。じゃ、書生さんが帰り次第お暇することにしましょう。汽車がなくなったっていいですよ。鎌倉には友達もあるんですから」
蘭堂は本当に迷惑相に云う。
「マア、お堅いんですのね。恥をかかせるもんじゃございませんわ」
夏子は小声になって、目を細めて、ニッコリと怨じて見せた。アア、その艶かしさ! 蘭堂は段々自信を失って行く様な気がした。
しっかりしろ、誘惑に陥ってはならぬぞ。お前には心に誓った恋人があるではないか。仮令一瞬間にもしろ、花園京子のことを忘れてよいのか。あの可憐で純潔な処女と、このみだりがましき年増女とを、心の天秤にかけるとは、お前は何という見下げ果てた堕落男なのだ。
「では仕方がございませんわ。せめて書生が帰りますまで……先生お疲れでございましょう。それに汗になりましたでしょうから、一風呂あびていらっしゃいません? さい前いいつけて置きましたから、もう沸いている時分ですわ」
夏子は又品を変えて、艶かしく迫った。
「イヤ僕は帰ってからでいいんです。どうかあなたご遠慮なく」
蘭堂は我と我心と戦いながら、愈々固くなって云った。