「じゃ、あたし、一寸失礼しようかしら。先生に番兵をお願いしてお湯に這入るなんて、本当になんですけど、あたしすっかり汚れてしまって、先生と顔を合わしているのも恥しい位ですから、顔丈け洗わせて頂きますわ。ホンのちょっとですから、済みませんがお待ち下さいませね」
夏子は娼婦の様なことを云って、蘭堂が肯くのを見ると、そそくさと湯殿へ立去った。
そして暫くすると、アア、今日は何という魔日だろう。又しても、湯殿と覚しき方角から、けたたましい悲鳴が聞えて来た。今度はゴリラ奴湯殿に待伏せしていたのかしら。と思うと、蘭堂はウンザリしてしまった。
悲鳴はいつまでも続いている。女中達はおびえてしまって、主人を助けに行くどころか、却て湯殿の前から逃げ出しながら、「大変です。奥様が、奥様が」と口々に叫ぶばかりだ。
うち捨てて置く訳には行かぬ。湯殿の中とは実に迷惑な場所だけれど、そんなことを云って、躊躇している場合でない。それに、ゴリラ男には重なる恨みがあるのだ。
蘭堂は女中に湯殿のありかを尋ねて、駈けつけると、いきなりその扉を開いた。
だが、扉を開いて一目浴室を見た時、彼はハッと目まいを感じて立ちすくんでしまった。
そこには、ゴチャゴチャと無数の肉塊が蠢いていた。人肉の万華鏡みたいなものが、眼界一杯に、あやしくも美しく開いていたのだ。
余りの怪しさに、ギョッとして、暫くは夢とも現とも判じ兼ねたが、やがて、気を取直してよく見ると、この浴室の不思議な構造が分って来た。
浴室は八角形の鏡の部屋になっていたのだ。境目もなく、厚ガラスの鏡ばかりで、浴槽を八角形にとり囲み、天井までも同じ鏡で出来ている、謂わば巨大な万華鏡であったのだ。恐らくは夏子の亡夫の奇を好む贅沢な思いつきから、入浴の為ばかりではなく、一種の観楽境として建てられたものであろう。
八方の鏡に反射し合って、数十数百の裸女の像を映し、それが身動きをする度毎に、万華鏡を廻した時と同じ様に、種々様々の肉塊の花を咲かせるのだ。
浴槽の中に立上って、悲鳴を上げていた夏子は、蘭堂の顔を見ると、流石に恥らって、急いで身体を湯の中に隠し、首丈け出して、叫ぶのだ。
「先生、これ、これですの。こんな恐ろしいものが、お湯の中にブカブカ浮いていましたの」
では、今度はゴリラ男ではなかったのか。
「失礼。女中さん達が怖がって、よりつかないものですから。……何が浮いていたのです」
蘭堂は、少し照れて、詫びごとをしながら、聞返した。
「これ、これ」
夏子は気味悪そうに、浴槽の片隅の一物を指さしていたが、それと同じ湯につかっているのに耐えられなくなったのか、思い切った様に、そのものを掴んで、浴槽の外へ放り出した。
その刹那、夏子の手が三本になった。五つに分れた指が、都合十五本、それが八つの鏡に反射して、無数の手首となって躍った。