流し場に放り出されたものは、正しく人間の手首であった。肘の所から切断した、見るも恐ろしい生腕であった。それが、白いタイルの上で、蒟蒻の様にいつまでもブルブル震えていた。
ただ事ではない。生腕が降る訳もなく、水道の蛇口から湧き出す筈もない。何者かがソッと投げ込んで置いたのだ。何者ではない。あのゴリラ男に極っている。彼奴が逃出す時、置土産に残して行ったのだ。
だが、ここに片腕が落ているからには、それを切られた人がなければならぬ。では、彼等は又しても、どこかで恐ろしい殺人罪を犯したのであろうか。
「オヤ、この腕には何か字が書いてある。入墨の様ですね」
蘭堂は思わず浴室に踏み行って、不思議な生腕を覗き込んだ。
「恐……怖……王。アアやっぱりそうだ。あいつらの仕業だ。この腕には恐怖王と入墨がしてありますよ」
又しても悪魔の宣伝文字である。
「マア、……どこに?」
夏子は、これも我を忘れて、浴槽を飛び出して来た。八つの鏡に、全裸の美女のあらゆる向きの像が、艶かしく、イヤ寧ろ恐ろしく、クネクネと蠢いた。
実に驚くべきことが起ったのだ。うら若き未亡人の、豊かにも悩ましき全裸身が、今蘭堂の目の前にあった。湯に暖められて艶々と上気した肌、産毛の一本一本に光る、目にも見えぬ露の玉、全身を隈どる深い陰影の線、それが鏡の面に、或はうしろ向き、或は横向き、或は真正面の百千の像となって、ゆらめき動くのだ。
若しこれが通常の場合であったなら、夏子は恥しさに消えも入ったであろうし、蘭堂はいきなり眼を覆って逃げ出しもしたであろうが、今は常の時ではない。二人の目の前に生々しい人間の腕が転がっているのだ。恥しさも、気拙さも、はては情慾さえもが、どこかへ消し飛んでしまって、彼等の心は、不気味さと恐ろしさに、全く占領されていたのである。
蘭堂は、そうしていても果しがないと思ったのか、生腕の上にかがみ込んで、気味悪いのを我慢しながら、二本の指でそれをつまみ上げた。
電燈にかざしてよく見ると、確に女の、しかもまだ若い女の腕だ。
「マア、可哀相に、誰かが殺されたのでしょうね」
夏子が声をかけても、蘭堂は生腕の指先を見つめたまま、身動きもしなかった。
やがて、徐々に徐々に、彼の顔色が変って行った。両眼は飛出す程見開かれ、口はポッカリ開いて、呼吸が烈しくなって行った。
「アラ、どうなさいましたの? 先生、先生」
夏子は相手のただならぬ様子に、我が裸身を忘れて、近々と蘭堂に寄り添いながら叫んだ。
「僕はこの指に見覚えがあるのです」
「エ、なんでございますって?」
「アア、恐ろしい。僕はこの腕の持主を知っているのです。思違いであってくれればいい。だが、よもや……」
蘭堂は云いさして、フラフラと倒れ相になった。
アア、彼程の男を、かくも悩乱せしめた、この生腕の主とは、抑々何人であったか。そして又、彼の恐ろしい推察は、果して適中していたのであろうか。