令嬢消失
大江蘭堂は、その生腕の小指にある、小さな傷痕に見覚えがあったのだ。
彼は真青になって叫んだ。
「僕はこの腕の主を知っている。非常に親しくしている人です。奥さん、僕はこうしてはいられません。失礼させて頂きます」
蘭堂はそのまま慌しく浴室を飛出そうとした。
「待って、待って下さい。あなたに行かれては、あたし怖くって、迚もこの家にいられませんわ。ちょっと待って、あたしも一緒につれて行って」
夏子は、湯に濡れてツルツルした全裸のまま、恥しさも忘れて青年に追縋り、その腕を掴んだ。
「その方、どなたですの? あなたの親しい女の方って」
「花園伯爵のお嬢さんです。僕はそれを確めて見なければ安心が出来ないのです」
蘭堂は夏子の手をふり放して又一歩ドアに近づいた。
「あなたの恋人? エ、そうなの?」
夏子は、ねばっこい女の力で、蘭堂の肩を持って、グルッと彼女の方へ向き返らせた。そして、顔と、むき出しの五体とで、何とも云えぬ嬌態を示した。蘭堂はそれをマザマザと見た。うら若き女性の余りにも大胆なる肉体的表情をマザマザと見た。そして、恐ろしさに震え上った。
そこには、しびれる様に甘い匂と、ツルツル滑っこい触感と、全身で笑みくずれている巨大なる桃色の花があったのだ。
「ごめんなさい。僕はこうしてはいられないのです。一刻も早く東京に帰って、それを確めて見なければならないのです」
譫言の様に云いながら、蘭堂はキョロキョロとあたりを見廻した。すると、部屋の一方に掛けてある湯上りの大タオルが、救いの神の様に目についた。彼はいきなりそれを掴み取って、パッと拡げ、目の前に咲いているみだらな花を、クルクルと包んでしまった。
「奥さん、では失礼します。書生さんが帰るまで女中さん達を集めて、お話でもしていらっしゃい。それに電話さえかければ、すぐお巡りさんも来てくれます。大丈夫ですよ。大丈夫ですよ」
一言一言あとじさりをして、彼は遂にドアを開いた。そして、夏子のうらみの声をあとにして、アタフタと玄関へ出て行った。夜更けの町を停車場に向って走っていると、都合よく空タクシーが通りかかったので、東京麹町までの値を極めて飛乗った。
闇の大道を飛ばしに飛ばして、麹町の伯爵邸についたのは、もう夜の十一時頃であったが、夜更けを遠慮している場合ではないので、車を降りると、慌しく門の電鈴を押した。
待ち構えてでもいた様に、書生が飛出して来て、応接間に案内した。そこには、まだあかあかと電燈が点じてある。程なく主人夫妻が揃って立現われた。
「京子さんは御無事ですか。若しや……」
蘭堂は伯爵を見ると、挨拶は抜きにして、先ずそれを尋ねた。
「ア、もうあんたもご存知ですか。よく来て下さった。わしも途方に暮ているのです」
伯爵の返事だ。伯爵はまだ大江と京子との親し過ぎる関係については何も気づいていなかったけれど、京子の崇拝する小説家としてお茶の会などには招いたこともあるので、蘭堂が犯罪捜査などには仲々腕のあることもよく知っていたのだ。