蠢く者
京子の傷口が癒えて病院から自邸に帰ったのは、それから一月ばかり後であった。その間大江蘭堂は、賊の危害を慮って、恋人を見舞うことさえ慎しんでいた。
鎌倉の喜多川夏子は、京子の事件を知ると、すぐ様蘭堂を訪ねて見舞を述べた。無論彼女自身も、例の入墨の生腕一件について警察の取調べを受け、少からぬ迷惑を蒙っているのだ。
「私達は三人とも、同じ敵に悩まされているのですわね。恐怖王という奴は、なんてむごたらしい人非人でしょう。私共は力を協せてあいつを防がなければなりませんわ」
彼女はそんな風に云った。又、
「これですっかり先生の秘密が分ってしまった。京子さん、あなたの愛人なのね。ね、そうでしょう。ホホホホホ」
といやらしいことも云った。
蘭堂が賊の脅迫状のことを話すと、
「マア、それで先生は病院へお見舞にいらっしゃらないのね。そして、そんな憂欝な顔をしていらっしゃるのね。お気の毒ですわ。アア、いいことがある。あたしね、先生の代理にお見舞に行って上げますわ。先生のお手紙になって、何んでもおっしゃる通り伝えますわ。ね、いいでしょう」
などとも云った。
夏子は病院へ京子を見舞いに行っては、その帰りには必ず蘭堂のアパートを訪ね、京子が逢いたがっていることなどを、大げさに伝えて、青年作家をからかうのであった。
そうして逢うことが度重なるに従って、蘭堂と夏子の間に、段々遠慮がとれて行った。共同の敵を持っている点で、蘭堂の方でも、この色ぽっい[#「色ぽっい」はママ]未亡人の接近して来るのを、無下に退ける訳にも行かなかった。
二人はアパートの一室で、さし向いで長い間話し込むことがあった。夏子は洋酒や食べものなどを持って来て、少しでも長く蘭堂の部屋にいようとした。お酒に酔えば、段々話が色っぽくなって行くのも止むを得ないことであった。
京子には逢えないし、一方夏子とは絶えず逢っているし、その上彼女は甚だ色っぽいので、こんな状態を続けていたら、今に京子に済まぬ事が起りはしないかと、蘭堂は不安を感じ初めた程であった。
だが、別段のこともなく京子退院の日が来た。花園伯爵からは、目出度退院したという礼状が来た。蘭堂はもう我慢が出来なくなって、伯爵邸を訪ね、久し振りで京子の顔を見、声を聞いた。
京子は、父伯爵の寝室の大きなベッドに寝ていた。まだ起きる程元気が恢復していないのだ。伯爵の寝室を選んだのは、そこが邸中で一番安全な場所だからだ。丁度京子の退院の日に、伯爵は二三日の旅行に出なければならなかったので、更に防備を固くして、書生の友達の腕っぷしの強い青年二人を頼んで、三人交替で寝室の入口に寝ず番をさせることにした。