持参金十万円
金庫の扉が内部からパッと押し開かれた。そして、何か黒い塊りみたいなものが、鉄砲玉の様に飛び出して来た。
「アッ、ゴリラ! 貴様だったナ」
蘭堂は両手を拡げて鉄砲玉に組みつこうとした。それは恐怖王の同類の、かの醜いゴリラ男であった。ステッキを持った二人の書生が、バタバタと駈けよった。伯爵夫人は両手を顔に当てて、部屋の隅に蹲ってしまった。
だが、賊は、本当のゴリラではないかと思われる程、頑強で素早かった。彼は「ギャッ」と猿類の鳴声を発して、迫る蘭堂を突き飛ばすと、寝台の向う側に逃げ込んでしまった。その寝台の上には、京子さんの死骸が、まだ横わっているのだ。
「大丈夫、もう逃がしっこはない。出口は一つだ。サア、ゴリラ、出て来い」
蘭堂は鬼ごっこの鬼の様に、両手を拡げて、抜け目なく身構えした。
「君達は両方から挟みうちにしたまえ、ナアニ、大丈夫だ。あいつは武器を持っていないのだ。ちっとも怖がることはないぞ」
蘭堂の指図に従って、二人の書生が一人ずつ、左右から寝台の向う側へ迫って行った。
ゴリラ男は今や絶体絶命であった。うしろに窓はあるけれど、頑丈な鉄格子だ。寝台の下をくぐって逃げようにも、その向うには蘭堂が立ちはだかっている。しかも、左右の敵は、太いステッキを振りかざして、刻一刻迫って来るのだ。
だが、この野獣は、少しも騒がなかった。兇悪なゴリラの顔に、ゾッとする笑いを浮べて、ギラギラする目で蘭堂を睨みつけた。
「ワハハハ……、俺が武器を持っていないって? 武器って、ピストルか、それとも九寸五分か。オイ、蘭堂、貴様これが見えないのか。ホラ、こんなすばらしい武器が」
ゴリラが破れ鐘の様な声で云った。ギャアギャア叫ぶばかりだと思っていたら、この猛獣は人間の言葉を知っているのだ。
彼はそう云ったかと思うと、目にもとまらぬ早さで、寝台の上にかけ上った。オヤッ、こいつ何をするのだ。
「ホラ、これが俺の武器だよ」
ゴリラは、いきなり京子の死骸の頸と腿とに両手をかけ、軽々と胸の辺までつり上げた。人間の楯である。
「アッ、何をする。離せ。離さないと」
「ワハハ……、離さないと、飛道具でもお見舞するというのかね。だが、このお嬢さんが守って下さるよ。サア、蘭堂、貴様こそ其処をどけ。そして、俺の帰り道をあけてくれ。いやか。いやだと云えば、ホラ、見ろ、こうだぞ、こうだぞ」
ゴリラは歯をむき出して、威嚇しながら、頸と太腿を掴んだ手を、ギュウとしめて、令嬢の死骸を弓の様に彎曲させた。今にも背骨がペキンと折れてしまうのではないかと思われる程。