深い沈黙の中に、伯爵夫人の啜り泣きの声ばかりが、切れ切れに続いていた。
「それはそうと、奥さん、金庫の中は異状ありませんか。何か紛失したものはありませんか」
蘭堂がふと気を変えて尋ねた。
「マア、あたし、まだ検べても見なかったのですが……」
夫人は力なく立上って、金庫の前に行った。
見ると、金庫の中の桐の観音開きは、ゴリラが身を隠す為に破壊され、内部の棚は滅茶滅茶にこわされて、夥しい書類が、箱の底に押しつけられていた。
観音開きの下部の抽斗を開いて見ると、一つ丈け、空っぽになっていることが分った。イヤ、全く空っぽではなくて、債券の束の代りに、一枚の紙片が残されていた。
「アラッ、債券がなくなっています。マア、どうしたらいいのでしょう。そして、こんなものが……」
蘭堂はその妙な紙片を夫人から受取りながら尋ねて見た。
「して、金額は? 余程沢山ですか」
「エエ、十万円。額面で十万円なんです。それが帰らなかったら、私共はすっかり貧乏になってしまいますわ」
気の毒な夫人は気違いの様な眼つきをして、オロオロと云った。
蘭堂は賊の置手紙らしい紙片を読下して見た。そこには左の様な、驚くべき文句が書きつけてあった。
花園伯爵閣下、
閣下の令嬢京子さんが、私を愛するの余り、結婚を申出られたのは、私にとって、いささか有難迷惑であります。なぜと云って、私の方では、少しも京子さんを愛していないからです。
併し令嬢の切なる願いをいなむによしなく、私は明夜私の邸宅に於て、はれの結婚式を挙げることに致しました。そこで今晩、私は花嫁のお迎いに上った訳です。
閣下、これは少々押しつけがましい婚姻と云わねばなりません。繰返して申しますが、私は少しも令嬢を愛していないのですから。
斯様な場合、世のならわしとしましては、花嫁に持参金をつけるのが当然であります。私はその持参金に対して目をつむって、好まぬ結婚を致すのです。金庫在中の債券十万円、右持参金として確に受領致しました。
恐怖王身内の猿類より
アア、何ということだ。ゴリラ男は又しても、死骸と婚礼をしようとするのか。しかも今度の死骸には両手がない。昔の俗語でトクリゴという奴だ。両手のない、死骸の花嫁を、彼は一体どうしようというのだろう。
ゴリラの再婚。そうだこのけだものはねや淋しくなったのだ。第二の死骸を娶ろうとしているのだ。莫大な持参金と諸共に。
彼奴、今度は、どの様な恐ろしい婚礼の儀式を営むことであろう。