注射針
それから一時間程後、大江蘭堂と、怪画家黒瀬とは、捜査課長自身の案内で、ゴリラと対面する為に、警視庁の地下室の階段を降りていた。
「すると、あなたとあのゴリラとは、戸籍面では兄弟という事になっているのですか」
捜査課長のS氏は、先に立って薄暗い段々を降りながら、尋ねた。
「エエ、僕の兄に当る訳です」
黒瀬は真面目な声で答えた。
何だか変な具合であった。考えて見ると、これは六年ぶりの兄弟の対面に相違なかった。何という異様な対面であろう。兄の方は一匹の野獣として、動物の檻の中にとじこめられているのだ。
奥まった薄暗い部屋のドアが開かれると、その中に頑丈な鉄の檻があった。檻の中には動物園の熊の様に寝そべっている黒いものがあった。
「コラ、起きろ起きろ、お前に逢い度いという人があるんだ」
S氏は靴で檻の縁をコツコツ蹴りながら、怒鳴った。
野獣はビックリした様に、ヒョイと顔を上げてこちらを見た。ゴリラの目と黒瀬画家の目とが、カチッとぶッつかった。
「アッ、お前……」
ゴリラが何か叫びかけてハッと口をつぐんだ。非常に驚いている様子だ。
「僕だよ三吉。覚ているかね、黒瀬正一だよ」
画家は、ゴリラの目を見つめながら、圧えつける様に云って、檻の側へ近づいて行った。画家はゴリラに対して、一種催眠術的な力を持っている様に見えた。彼の前では、あばれもののゴリラが非常におとなしく、首を垂れてかしこまっていた。
「三吉、お前は飛んでもないことをしたんだ相だね。その上、捕まってからも、人を傷けたというではないか。お前は何という馬鹿だろう。こんな動物の檻の中へ入れられるのも、お前の智恵が足りないからだよ。悲しいとは思わないのか。素直に何もかも白状してしまうがいいじゃないか。お前が云わなくても、こうして僕が知ったからには、僕からすっかり申上げてしまうよ。その方がお前の為なのだ。警察の方も、お前の哀れな素性をお聞きになったら、きっと同情して下さるよ」
黒瀬は檻の鉄棒に顔をくッつけて、涙ぐんだ声で、諄々と悟し聞かせるのであった。ゴリラの方でも、久方振りの対面を懐かしがってか、黒瀬の側へすり寄って来て、じっと蹲まっていた。
黒瀬は話しながら、鉄棒の間から手を入れて、ゴリラの背中をさすったり、その手を握ったりした。そんなにされても、ゴリラは、まるで猛獣使いの前に出たけだものの様におとなしかった。
画家とゴリラとの不思議な対面は三十分程もかかった。彼はその間、ゴリラを説き伏せる為に、ボソボソ、ボソボソ囁き続けていたのだ。そして、結局彼の努力は報いられた様に見えた。
「とうとう説き伏せました。三吉は今度のお検べには、何もかも白状すると云っています」
黒瀬は少し離れて待受けていた二人の方へ戻りながら云った。
捜査課長はこの吉報にひどく喜んで、お礼を云った。
黒瀬は何かもじもじしていたが、
「洗面所はどちらでしょうか」
と尋ねた。