捜査課長はドアの外へ出て、その所在を教えた。黒瀬はさいぜんから我慢していたものと見え、妙な走り方をして、その方へ急いで行った。
そして、それっ、この怪画家は再び姿を見せなかったのだ。洗面所へ行くと見せかけて、どこかへ逃出してしまったのだ。
一方檻の中でも妙な事が起っていた。
「オイ、三吉、何をしている。どうしたんだ」
捜査課長が驚いて檻に駈け寄り、又コツコツと、その縁を靴で蹴った。
だが、今度はゴリラは何の反応も示さなかった。彼は長々と横たわってをかいていた。顔が真青になって、額にビッショリ汗の玉が浮いていた。
「今話をしていた奴が、もう寝入っている。何ということだ。コラ、起きぬか、起きぬか」
S氏は鉄棒の間から手をさし入れて、転がっているゴリラの身体を烈しくゆすぶった。だが少しも手ごたえがない。まるで死んだ様だった。数分間でこんなにもよく寝込めるものだろうか。
「変ですね、どうかしたんじゃありませんか。そいつの顔色をごらんなさい」
蘭堂が檻を覗き込んで云った。
ただ事ではなかった。ゴリラは死にかけているのだ。何の原因もなく、突然こんな発作が起るものだろうか。
「それにしても、あの黒瀬という人は何をしているのだろう。馬鹿に長いじゃありませんか」
S氏がふとそれに気づいて云った。
二人の胸に殆ど同時に、ある恐ろしい考えがひらめいた。
「オイ、君さっき出て行った黒瀬という人を探してくれ給え、洗面所にいる筈だ。大急ぎで探してくれ給え」
S氏は外の廊下に立っていた一人の警官に命じた。
だが黒瀬の姿は、洗面所は勿論、庁内のどこの隅にも発見されなかった。
一方ゴリラ男の容態を見る為に医員がかけつけ、檻の戸を開いて中へ入って行った。
彼はゴリラの身体を綿密に検べ終って顔を上げた。
「腕に注射針の痕があります」
「毒薬ですか」
捜査課長がびっくりして聞返した。
「エエ、多分……」
医員はある毒薬の名を答えた。
「それで生命は?」
「分りません。至急に手当てをして見ましょう。こんな頑強な男ですから、うまく命をとりとめるかも知れません」
医員はゴリラ三吉の脈を圧えながら云った。
二人の警官が医員の指図に従って、ゴリラを檻から出して、階上の別室へ運んで行った。
庁内は俄に色めき立った。捜査課長は自室の電話口で、黒瀬と称する男の人相風体を怒鳴り続けた。黒瀬捕縛の非常線がはられたのだ。
ゴリラに毒薬を注射した者は黒瀬の外にはない。何よりの証拠は彼が姿を消したことだ。ゴリラ男の奇妙な身の上話も、三吉という名前もみんな出鱈目に極っている。彼は捉われた同類に接近する為に、な手だてを考え出したのだ。
あわよくば同類を救い出す積りであったかも知れない。だが、それが絶望と分ると、彼は我身の安全をはかる為には、同類をなきものにする外はなかった。幸、まだ何も白状していないのだから、今の内に殺してしまえば、彼は永久に安全でいることが出来るのだ。
だが、それ程ゴリラの自白を恐れた黒瀬という男は何者であったか。彼こそ「恐怖王」その人ではなかったのか。