悪魔の正体
警察の物々しい捜索にも拘らず、黒瀬という長髪の男の行衛は、杳として知れなかった。こんなに探しても分らぬ所を見ると、黒瀬という名が出鱈目なのは勿論、あの長髪も、チョビ髭も、黒眼鏡も、みんな変装用の道具であったかも知れない。顔色が変にあさ黒かったが、あれもひょっとしたら、巧なお化粧をしていたのではあるまいか。イヤ、そればかりではない。あいつの声は、何だか変であった。作り声をしていたに違いない。などなど、次から次へと疑いが起って来た。
一方毒薬の為に意識を失ったゴリラ男は、普通の人であったら即死すべき所を、野獣の様な体質のお蔭で、辛くも一命はとりとめたけれど、意識を取り戻しても唖の様にだまりこくって、ただ寝台の上に長くなったまま、身動きさえしなかった。気が違ってしまったのかも知れない。自然取調べは少しも進捗しないのだ。
その騒ぎがあってから七日目の夜のことである。
大江蘭堂は喜多川夏子に誘われて、鎌倉の彼女の家に客となっていた。
恋人を失った悲しみはまだ新しかったけれど、この若く美しき未亡人の、友達としての魅力は捨て難きものがあった。
彼女は美しかったし、お金持であったし、蘭堂に並々ならぬ好意を寄せていたし、その上、女に似げなき推理の名手であって、D百貨店の花嫁人形事件では、謂わば専門家の蘭堂をさえアッと云わせた程だから、最初は嫌い抜いていた蘭堂も、いつの間にかこよなき友達としてつき合い始めたのは、無理もないことであった。
例によって夏子のもてなしは、至れり尽せりであった。二人切で食卓を囲んで、すてきな手料理と香り高い洋酒の瓶が、幾色も幾色も並べられた。
「いくら我身が助かりたいからといって、あんなに忠実に働いたゴリラ男を殺してしまおうとするなんて、惨酷じゃありませんか」
話は当然そこへ落ちて行った。
「でも、恐怖王にして見れば、外に仕方がなかったのかも知れませんわ」
「併し、あいつはもともと、俺は恐怖王だぞと広告しているんじゃありませんか。仮令ゴリラが本当のことを白状した所で、その為に捉えられる様なへまな真似はしない筈です。助手に使う為にゴリラを救い出す必要はあったかも知れないが、何も殺すことはなかったでしょう」
「でも、恐怖王の方には、何かそうしなければならない様な、特別の事情があったのかも知れませんわ」
夏子はもう目の縁を赤くしながら、妙に賊のかたを持つのである。
「特別の事情って?」
蘭堂も少し酔っていた。酔うに従って話相手が、段々美しくなまめかしく見えて来るのであった。
「例えば、恐怖王が、一方では私達の様に普通の社交生活をしていて、その仮面をはがれては困るという様な……」
夏子はあどけない巻舌になって云った。
「ホホウ、あなたは、あの殺人鬼が、我々と同じ様な善良な社交生活を営んでいるとおっしゃるのですか」
「エエ、そうでなければ、あんな危険を冒して、ゴリラを殺しに行く筈がありませんもの。若しかしたら、恐怖王は恋をしているんじゃないかと思いますわ。恋人に身の素性を知らせたくない為ばかりに、あんな冒険をやったのではないかと思いますわ」
そう云って、夏子はうるんだ目で、じっと蘭堂の顔を見つめた。蘭堂の方でも、何故か相手の目を覗き込まないではいられなかった。二人はお互の目を見つめたまま、長い間黙り込んでいた。そこに何かしら異様な、ゾッとする様なものが感じられた。
「ホホ…………」夏子が頓狂に笑い出した。