「サア、これを一つ召上れ。強いのよ。でも大丈夫。あたし介抱して上げるから」
彼女は、なまめかしく云って、赤い色の洋酒をグラスについで勧めた。
蘭堂は妙なゾッとする様な感じを払いのけようとして、それを一息に飲みほした。火の様に熱い酒だった。喉から食道がカーッとほてって、それが、胃袋に落ついた時分に、俄に脈が早くなって来た。脳髄がズキンズキンと持ち上げられる様な気がした。そして、夏子の美しい顔が、ズーッと遠く小さくなって、いつとはなく意識がぼやけて行った。
蘭堂は、目まぐるしく変転する長い長い夢を見つづけていた。
それは歯の根も合わぬ程恐ろしい快い悪夢であった。真暗な中に白い巨大な芋虫の様なものが、無数にクネクネとよじれ合っていた。それが様々の色に変って行った。赤い芋虫が一等恐ろしく、ゾッとする様な魅力を持っていた。
変転する場面は、皆その様な感じのものであった。どれもこれも身の毛もよだつ悪夢であった。
夢見ながら、触覚では、絶え間なく、暖くて柔い触手の様なものでくすぐられるのを感じていた。
グッショリ油汗になって、ふと目を覚ますと、顔の上に何か重い柔いものが乗っかっていた。それが夏子の顔であることを悟るのに長い時間かかった。
彼が身動きすると、夏子は顔を離して、枕元に立った。もうちゃんと着替えをすませて、お化粧さえしていた。
まだおぼろげな意識で、ぼんやり見上げている蘭堂の頬を、軽く叩いて、彼女はニッコリ笑った。
「可愛いお坊ちゃん、お目がさめて?」
そういったかと思うと、彼女は何か用ありげに寝室の外へ出て行ってしまった。
蘭堂はそれを見送りながら、声をかける気力もなく、三十分程もウトウトしていた。身体の節々が抜けて行く様な、快さにひたっていた。
女中が新聞とコーヒーを枕元の小卓へ置いて行ってくれたのも、夢の中の様におぼろげであった。
長い間かかって、やっと意識がハッキリすると、彼は毎朝の習慣に従って、枕元の新聞を取った。
重いカーテンがおろしてあるので、寝室は夕暮れの様に薄暗かった。
彼は卓上の電燈をひねって、夜の光線で新聞を読み始めた。
「ゴリラ男」脱走す
昨夜深更○○病院から
全市に非常警戒
四段抜きの大見出しが、彼の目に飛びついて来た。
記事はただ病中のゴリラ男が脱走して行衛知れずという丈けで、詳しいことは分らなかったが、考えて見ると、首領恐怖王から毒薬注射を受けたのちのゴリラである。再び首領の前に頭を下げて行く筈はない。愚かものの彼とても、それ位のことは分っているだろう。
イヤ、愚かものである丈けに、我身の危険などは顧みず、ただ恨みに燃えて、同類を裏切った首領に仇を報いようとするかも知れない。
「ゴリラの脱走を聞いて震え上るのは、一般市民でなくて、寧ろ彼の首領の恐怖王その人ではあるまいか」
蘭堂は苦笑しないではいられなかった。彼等は同志うちを始めるに極っている。そして、どちらが勝つにしても、世間はいくらか助かるのだ。