そんなことを考えていると、どこからか恐ろしい悲鳴が聞えて来た。「助けて……」という様に聞えたが、云い切ってしまうまでに、何かに圧えつけられた様に、パッタリ途絶えてしまった。
確かに夏子の声であった。どうしたというのだろう。ゴリラ脱走の記事と今の悲鳴との、妙な符合が蘭堂をギョッとさせた。
彼は大急ぎで寝台を飛び降りると、のまま、部屋を飛び出した。
廊下には二人の女中が青くなって震えていた。聞いて見ると、今の声はどうやら二階の書斎らしいとのことだ。
彼は階段を飛上ってその部屋へ駈けつけた。
ドアは開かぬ。内側から鍵をかけてある様子だ。
聞耳を立てると、部屋の中で、何者かの息遣いがハッハッと聞える。
蘭堂はふと気がついて、ドアの鍵穴に目を当てた。
案の定、そこにゴリラ男がいた。
彼は何故か案の定という気がしたのだ。
病院を逃げ出した彼は、昨夜の内にこの邸へ忍込んでいたものに相違ない。何故彼はここへやって来たのか。
ゴリラはハッハッと息をはずませていた。牙の様な大きな歯が真赤に染って、唇からボトボトと赤いがたれていた。血だ。
「そこへ来たのは、大江の野郎だな」
突然血走った目が鍵穴を睨みつけて、赤い口が怒鳴った。
「ハハハ……、馬鹿野郎! はそれでも探偵のつもりか。ここは手前ののだということを知らねえのか。ハハ……。ソラ、開けてやるから這入って来い。そして、このテーブルの上の品物をよく検べて見るがいい。サア入って来い」
ゴリラは嘲笑しながら、鍵穴に鍵をはめてカチカチと廻した。
一押しでドアは開いた。だが、蘭堂は飛び込む勇気がなかった。赤い雫のたれているゴリラの口を見ては、飛かかって行く勇気がなかった。
躊躇している間に、ゴリラはもう向側の窓枠に足をかけていた。そして、パッと彼の姿が窓の外へ消えると、空中に不気味な笑い声が残った。ゴリラは二階の窓から庭へ飛び降りたのだ。
蘭堂がその窓へ駈けつけた時には、ゴリラはもう塀を乗り越していた。
今から階段を廻って追駈けたのではも間に合わぬ。と云って、猿でない蘭堂には、この高い洋館の窓から飛降りる力はない。声を立てて往来の人の応援を求めようにも、早朝といい、林の中の非常に淋しい場所なので、人通りもないのだ。
仕方がないので、階下に飛んで降りて、女中に警察と附近の医者へ電話をかけさせて置いて、又元の二階へ取って返した。こんな時に書生がいてくれれば助かるのだが、それも丁度不在なのだ。
ゴリラよりも気がかりなのは夏子のことだ。手傷を受けた丈けならいいが、もしや殺されてしまったのではあるまいか。
夏子は部屋の片隅にもみくちゃになって倒れていた。調べて見ると、息も絶え脈もなくなっていた。喉をしめられた跡が紫色にふくれ上っている。右頬を喰いつかれたと見え、ザックリ肉が開いて、顔中がの様に真赤だ。素人目にも到底の見込はない。
ゴリラ男が云い残して行ったテーブルの上を見ると、そこに実に奇妙な品々を発見して、蘭堂はとした。