紅葉した山々が、絵の様に湖水を縁どって、そこを白いボートが、小さな水鳥の様に辷って行くのが、ホテルの窓から好もしく眺められた。ボートの上には白いものが前後に動いている。あれは白シャツ一枚の明智の姿であろう。その前にウジャウジャ蠢いて見えるのは、この思いがけぬ舟遊びにはしゃぐ子供等であろう。
ホテルのバルコニーへ出て、ほほえみ交わす親達の耳へ、時々、水面を伝って、昔懐しい唱歌の声が聞えて来たりした。
その親達に混って、一人の美しい婦人が、やっぱりボートの方を見て、ほほえんでいた。東京の有名な大宝石商の玉村氏のお嬢さんで、妙子さんという方だ。信州のある温泉場からの帰り途を、お父さんの一行と分れて、一人の婆やを供に、数日ここに滞在しているのだ。妙子さんの女学校時代の(それも去年の春卒業したばかりなのだが)親しいお友達が、このSに住んでいて、その人と語り合うのが主な目的であった。
その妙子さんが、子供の親達に混って、なぜ明智のボートを眺めていたかというに、妙子さんは婆やの外に進一という十歳ばかりの男の子を連れていて、その子供が明智の舟に乗せて貰っていたからである。進一というのは、玉村氏所有の貧乏長屋に住んでいた小商人の息子で、両親に死に分れ、身寄りもないのを、妙子さんがお母さんにねだって、自分の弟の様にして育てている、可愛らしい子供であった。そんな所を見ても、妙子さんが、世間知らずのねんねえではなくて、大家育ちの云うに云われぬしとやかさの内に、どこか凜とした物を持っていることが分るのだが。
で、そんな日が続く内に、明智は子供等の縁でその親達とも親しみを加えて行ったが、分けても玉村妙子さんとは、双方から不思議に引寄せられる感じで、食堂でテーブルを同じにしたり、お茶に呼び合ったりするばかりでなく、はては、そっと婆やの目を盗んで、彼等丈けで、湖水に舟を浮べる程の親しい間柄になってしまった。
そんな時、彼等は極って、ホテルからは見えぬ、湖水の入江になった所へボートを漕いで行った。そこの岸辺には、こんもりと茂った常盤木の林があって、その青い中に、雑木の紅葉が美しい朱を点じ、それが動かぬ水に、ハッキリと姿を映していた。彼等はいつもその蔭に舟を流して不思議な物語に耽けるのである。だが、読者諸君、二人の関係を邪推してはいけない。明智は不良青年という年ではないし、妙子さんも、僅か数日の知合いに心を許す程あばずれではなかった。それに、ボートには、いつも二人の間に、かの進一少年が乗っていたのだから。彼等はただ不思議に気の合ったお友達でしかなかったのだ。
とは云え、正直なところ、妙子さんの心は知らず、少くも明智の方では、この若く美しく聡明な娘さんに、友達以上の懐しさを感じてい、それが日一日と深くなって行くのをどうすることも出来ない状態であった。
「オイオイ、しっかりしろ。お前は何を甘い夢を見ているのだ。年を考えて見るがいい、お前はもう四十に近い中年者ではないか。それに妙子さんは由緒正しい大資産家の愛嬢だ。お前の様な素寒貧の浪人者に、どう手が届くものか。サア、早く今の内に、あの人の側から遠ざかってしまうがいい」