だが、流石は名探偵である。彼は自動車の踏台に足をかけた時に、ハッとある危険を感じて、思わずあと戻りをしようとした。併し、残念ながらもう遅かった。うしろからは案内役の運転手が、恐ろしい勢で押込む、中からは運転手台の助手が猿臂を延ばして引ずり込む、不意を打たれて、抵抗の隙がなかった。
「何をするッ」
と怒鳴って、外へ飛び出そうと立直った時、彼を押込んだ運転手の右手が、鉄の様な握り拳になって、パッと胸を打った。柔道の当身である。勿論運転手に化けた賊の一味、その道の心得あるものに相違なかった。
あの駅前の雑沓の真中で、しかも夜に入ってからの出来事である、仮令明智の怒鳴り声を聞いた者があったとしても、そんな怒鳴り声は駅前では珍らしくもないのだ。
自動車は何事もなかったかの様に、大胆にも明るい電車通りを、広小路の方角へ走り去った。その客席のクッションには、我等の主人公明智小五郎が、みじめにも気を失って、グッタリと凭れかかっていたのである。
再び云う。この出来事に於て、明智の方には責むべき油断があった訳ではない。ただ、賊が、警察よりも、福田氏よりも、明智小五郎よりも、十歩も二十歩も先んじて、虚を突いて奇功を奏したに過ぎないのだ。
とは云うものの、何たる早業、何たるずば抜けた作戦であろう。犯罪はまだ行われたという訳ではないのだ。戦いはまだ始まっていないのだ。彼等は戦いに先だって、先ず彼等に取って最大の敵である、名探偵明智小五郎を虜にしてしまった。並々の賊ではない。彼等の行わんとする犯罪も亦、決して並々のものではないであろう。それにしても、彼等は一体全体、如何なる手段によって、明智小五郎が此事件に関係すること、この汽車で上野に到着すること、それを福田家の自動車が出迎いに来ることなどを知り得たのであろう。又、本物の福田家の自動車は、どうなったのか、若しや、その運転手達も、明智と同じ憂目を見たのではあるまいか。アア、世にも恐るべき兇賊の手腕。