アア、何ということだ。賊は近づくと自殺するぞとおどかしているのだ。しかも本当に喉笛を掻切る勇気もないのだ。これがあの世間を騒がせている大胆不敵の怪賊の仕草であろうか。一生涯を復讐事業に捧げた人物の行いであろうか。彼の従来の傍若無人なやり口に比べて、この無気力な態度は、余りにも烈しい相違ではないか。
そこまで考えた時、明智の胸にある恐ろしい疑いが閃いた。彼はゾッとした。「しまった」と思うと、流石の名探偵も、胸から背中から、冷たい油汗がにじみ出すのを感じた。
いや、そんな筈はない。一座の内で道化服を着ていたのは、座長の怪人丈けだ。小人数の一座に同じ風体の道化師が二人も居る筈はない。その証拠には道具方も「あれが座長だ」と云って疑う様子もなく追撃を始めたではないか。
「オイ、君は座長ではないのか」
尋ねて見ても、相手は恐怖の為に即座に返事も出来ない様子だ。
「君は一体誰だ。座長でない者が、どうしてそんな服装をしているのだ」
「座長ではありません」やっと相手が震え声で答えた。「軽業師の木野ってもんです」
それを聞くと明智は相手の兇器を無視して、飛びかかって行ったかと思うと、襟がみを掴んで、男の顔を下からの細い光線の中へ、グイとねじ向けた。見ると全く人違いだ。取るにも足らぬ若造だ。容貌は奇怪な化粧で分らぬけれど、顔の輪廓がまるで違う。遠方と暗さの為に、こうして近々と眺めるまでは、年齢や顔の輪郭までは見極めることが出来なかったのだ。
明智は若者を虫けらの様に突き離して置いて、元来た梯子の方へ引返し、おそまきながらもう一度舞台裏を検べて見ようとした。
だが、入口の穴まで来て、下を見卸すと、梯子の昇り口に群がりよる一団の人々。警官、座方の者、弥次馬、それに玉村二郎まで、全員こぞって、屋根裏目ざして集って来た所だ。
「二郎君、木戸口の見張りはどうしたんだ」
明智は烈しい口調で尋ねた。
「木戸口の見張ですって、そんなことどうだっていいじゃありませんか。手下の奴等が逃げてしまっても、首領さえ捕えれば」
二郎は呑気な返事をした。無理はないのだ。道化服の怪人は明智を初め三人のものに、屋根裏へ追いつめられた。もう何も表口裏口を見張っている必要はない。それよりも明智に協力して屋根裏の怪賊を捕えなければならぬ。一刻も早く恋人の敵の顔が見てやり度い。と二郎が考えたのは、誠に自然である。二郎がその考えだから様子を知らぬ警官にしても、座方の者にしても、もう犯人は捕まったことと思って、ただ屋根裏へと殺到したのだ。
直ちに場内から表の往来まで隈なく捜索したが、已に手遅れ、首領の怪物も、部下の連中も、娘の文代まで、行衛知れずになっていた。
道化服の若者を取調べて見ると、彼は近頃元の親方の所から、多分の金を持逃げして、怪賊の一座にかくまわれていた者で、さっき「美人解体術」が終って間もなく、座長が「木戸口にデカらしい奴が来ているから、万一の用意に、お前は俺の道化服を着て白粉を塗って、姿を変えているがよかろう」と注意してくれたので、その通りにしていると、今の捕物騒ぎだ。脛に傷持つ彼は、テッキリ自分が捕縛されるものと思い込み、持前の軽業で、綱渡りから天井裏への逃走となったのである。彼は泥棒などする男に似合わず極度の小心者で、短刀を用意していたのも、繩目の恥を受けるよりは、いっそ自殺したがましだと、本当に考えたからであった。併しいざとなると、やっぱり駄目で、結局捕縛されてしまったが、聞けば、泥棒をしたのも、慾心からではなく、色女に貢ぐ為だったという事だ。
無論これは、例の怪物の、悠々迫らぬ、からかい顔の逃走トリックであった。流石の明智もそこまで手早い用意が出来ていようとは知らず、思いもかけぬ失策を演じてしまったのだ。