明智は眠られぬベッドの中で、幾度も自分を叱った。そして、明日こそは出発しようと決心するのだが、朝になると、つい立ちそびれてしまうのが常であった。
だが、この問題は妙子さんのお父さんが、解決してくれた。彼は娘の滞在が長引くのを心配して、ある日東京から電話をかけて、早く帰る様にと娘に云いつけた。大人しい妙子は、その云いつけを守って、即日ホテルを出発したが、明智に別れを告げる時には、彼女の方でも、気のせいか、ひどく名残り惜しげに見えた。
妙子が去ってからも、明智は以前の様に、子供達をボートにのせて、湖水を漕ぎ廻るのを日課にしていたが、さも快活に装いながら、眉宇に一抹の曇りを隠すことは出来なかった。
妙子の掴めば消えてしまい相な、しなやかな身躯、ほほえむとニッと白い八重歯の見える、夢の様に美しい顔、胸の擽られる様な甘い声音、それらの一つ一つが、時がたてばたつ程、まざまざと記憶に浮んで、明智は二十歳の青年の様に、悩ましい日を送らねばならなかった。
湖水に舟を浮べて、妙子と取交わした、様々の会話も思い出の種であった。だが、それらの春のそよ風の様に、朗かに甘い会話の中で、たった一度、打って変って、彼女は非常に陰気な打開け話をしたことがある。どういう訳か、その彼女の不思議な言葉が、殊更ら忘れ難く頭の底にこびりついて離れなかった。それは謂わばこの物語の発端を為す所の、一挿話に相違ないのだから、ここに簡単に記して置くが、その時、舟は例の常盤木の蔭暗き岸辺に漂っていた。その舟の中で、妙子は、ふと通り魔に襲われでもした様に、妙な事を云い出したのである。
「それは、根もない夢の様なことかも知れませんわ。でも、わたくし小さい時分から、不思議に先々のことが分りますの。母は五年以前になくなりましたが、その母の死にますのが、わたくしには、半年も前からちゃんと分って居りましたのよ。それと同じ様に、今度のこの恐ろしい夢も、本当になって現われるのではないかと思いますと、もう怖くって、怖くって、一人で寝んでいる時など、ふとそれを考えますと、ゾーッと水をあびせられた様な、それはいやアないやアな気持になりますのよ」
「お姉さま、又そんな話をしちゃ、いやだ」
進一が、まだ十歳の少年の癖に、大人の様な恐怖の表情で、叫んだ。
「で、それは一体どんな夢なんです」
明智が、妙子の異様に陰気な表情に、びっくりして尋ねると、彼女はそれを口にするさえ恐ろしい様子で、声を低くして云うのだ。
「何ですか魂のある黒雲みたいなものが、私達一家の上に、恐ろしい早さで覆いかぶさって来るのです。わたくし、もう二三ヶ月も前から、絶えまなくそれを感じていますの。恰度雉が大地震を予感します様に。……誰かが私達一家を呪ってでもいる様な。今にも私達一家のものが、何かの恐ろしい餌食になる様な。そんな気持ですのよ」
「では、何か、そんな疑いをお起しなさる様な理由でもあるのですか」
「それがちっともございませんの。ですから、なお怖いのですわ。どういう風の禍ですか、えたいが知れませんもの」
無論妙子は、名探偵としての明智小五郎を知っていた。で、この妙な打開け話も、彼にすがって、彼の判断を乞う為であったかも知れない。併し、全然現実的根拠のない夢物語では、いかな明智にも、どうする術もないのだ。そして、丁度そうしている所へ、ホテルの小使が、東京から電話だといって、妙子を探しに来たのであった。