首を括りつけた板は、明かに舟に擬したもので、その船首に当る箇所には、船名のつもりか、筆太に「獄門舟」と記されてさえいた。
アア、獄門舟、何という不気味な名称であろう。獄門台の代りに、水のまにまに流れ漂う移動さらし首だ。いうまでもなく、これは生前の福田氏に深き深き恨みを抱く、かの下手人が、死者に最大の侮辱を与える為に案出した、恐ろしき私刑に相違なかった。
この出来事は所管警察署を通じて、警視庁に伝えられ、生首の主が福田得二郎氏であることも忽ち判明した。
波越警部は、犯人の傍若無人なやり口に、重ね重ねの大侮辱を蒙り、鬼刑事の名にかけて、最早やじっとしていることは出来なかった。直ちに捜索刑事団が編成され、草の根を分けても犯人を引掴んで来いとの厳命が下され、波越刑事自身その先頭に立って、白橋上流の両岸、当時その辺にいたと覚しき荷舟乗合舟の類を、虱つぶしに調べ廻ったが、遂に何の得る所もなかった。
白橋上流には、遠く千住大橋まで一つの橋もなく、しかも大川はその中間で殆ど直角に折れ曲り、見通しが利かぬので、人知れずこの異様な流し物をするには、究竟の場所であったに相違ない。その上綾瀬川その他支流や入江なども多く、捜査範囲は非常に広い地域に亙り、如何な警察力を以てしても、余りにも漠然たる探し物であった。
犯人につき纒う怪談、獄門舟の妖異、加うるに人気者明智探偵の誘拐、新聞編輯者にとって何という好題目であろう。社会面は福田氏殺害事件で埋められ、従って世間の騒ぎは日一日と甚しくなって行った。
窓なき部屋
明智小五郎は、うたたねの夢から覚めた様な気持で、ふと目を開いた。
少々頭痛がするのを除くと、凡てが甚だ快適であった。手狭ながら贅沢に飾られた洋室、天井から下った古風な併し贅沢な空気ランプ、深いクッションの立派な長椅子。……彼は意識を恢復して、上野駅での出来事を思起した刹那、猿轡と手足の繩目を幻想したが、どうして、繩目どころか、全く自由な身体で、彼はその長椅子のクッションに深々と横わっていたのである。
明智が目を開いて、まじまじしていると、それを待構えてでもいた様に、ドアが開いて、一人の女が室内に這入って来た。美しい十八ばかりの娘だ。一寸見なれぬ型のダブダブした黒絹の洋装で、手に銀盆をささげている。盆の上には飲み物と軽い食事の皿が並んでいるのだ。
「お目ざめになりまして?」
娘はソファの前の卓に銀盆を置いて、ニッコリして明智に話しかけた。
「本当に大変でしたわね。でも、どこも御痛みにはなりません?」
無論知らぬ娘だ。この部屋にも見覚えはない。明智は夢みたいな気持で、しばらくボンヤリしていたが、やっと気を取り直して、
「ここは一体どこの御宅なんでしょう。そしてあなたは?」
と尋ねて見た。
「イイエ、御心配なさることはありませんわ。あなたの御危い所を御救い申した人の家とでも思っていて下さいまし。そしてあたしはその家の娘ですの」
「そうでしたか。僕は上野駅で変な自動車に押込まれたことは覚えていますが、すると今迄気を失っていたのでしょうか。それにしても、どうして僕を救って下すったのですか。御主人はどなたですか。そして、ここはやっぱり東京市内なんでしょうね」
「エエ、まあそうですの。でも、あなたまだ色々なこと御考えなさらない方がよござんすわ。それに、あたし、何にも喋ってはいけないって云いつけられているんですもの」
「ナアニ、もう大丈夫ですよ。どこも何ともありません。少し頭がフラフラしている位のものです」