五色の雪
明智の立場は苦しかった。非常な苦労をして死を装い、折角爺やに化けて玉村邸内に入込んでいたのを、心なき二郎青年の失策から、賊の前に正体を曝さねばならぬこととなり、しかも、その大犠牲を払って追跡した賊には、まんまと一杯喰わされてしまったのだ。周囲の人々、引いては世間に対する不面目は姑く別にしても、彼の自尊心がこの恥辱に耐え得なかった。こうなっては、もうどんなことがあっても、賊の巣窟をつきとめないでは我慢が出来ぬ。前後の利害を打算している暇はないのだ。彼は木戸口の所に黙然と佇んだまま、全気力を頭脳に集中した。全く不可能な事柄を、為しとげなければならぬのだ。あれ程探して分らぬ賊の行衛を、今直ちにつきとめようというのだ。
彼は嘗つて怪汽船の密室で、身動きもならぬ繩目を受け、怪賊の為にあわや毒薬を注射されようとした、あの危急な場合を想起していた。その時彼を救ってくれたのは、当の怪賊の娘文代だった。全くあり得ないことが起ったのだ。
だが、あの時、彼は五官以外の感覚で、それを予期していた。少しも絶望を感じなかった。今夜も同じ不思議な感覚がある。心の隅を名状し難い微妙な何者かが擽っている。それは例えば少年の日の恋の思出の如く、ほのかにも匂やかな感情だ。
定めもなくあたりを見廻わしていた明智の目が、ピッタリと、闇の地上に釘づけになった。長い長い間そこを見つめていた。やがて、彼の固い頬が徐々にくずれ、皺んだ眉が開くと、にこやかな微笑が顔全体を占領した。
「二郎君、君が恋人を失った気持が、今こそ分る様な気がします。アア、君は変な顔をしてますね。なぜだと云うのですか。それはね、僕にも非常に美しい恋人が出来たからですよ」
明智はこんな際にも拘らず、彼にも似ぬ感情的な調子で、妙なことを云い出した。無論二郎には何のことだか分らなかったが、あとになって考えて見ると、我が明智小五郎が生涯で初めて恋を感じたのは、その芝居小屋の木戸口に立って、暗い地面を見つめていた時であった。誰に対して? それは追々に分ることだ。
「サア、これから賊を追っかけるのです。多分僕達は奴の巣窟をつきとめることが出来るでしょう」
明智が感情を振り払って叫んだ。二郎も警官達も、彼は気でも違ったのかと怪しまないではいられぬ。
「何を目当てに追跡するのです」
「マア、僕に任せて置いて下さい。十中八九諸君を失望させることはないと思います」
云いながら、彼はもう町を右へと歩き出した。さもさも確信のある様に。
有名な素人探偵の云うことだ。人々も彼に従って歩き始めた。二郎と警官四名、同勢六人だ。
町角へ来る度に、明智は何の躊躇もなく、一方の道を選んで進む。まるで目に見えぬ道しるべでもある様に。
五六丁歩くと東海道線の踏切りだ。その辺から、夜更けながら、町筋が明るくなる。
「アア、分りました。明智さん。あなたはあれを目当てに歩いているのですね」
二郎が町の明りでそれを発見して叫んだ。人々が彼の指さす地上を見ると、行手にずっと続いている、粉の様に小さな五色の色紙、今までは道路が暗いのと、紙切れが余りに小さい為に、つい気附かなんだが、振返えると、うしろにも同じ様に、幽かに断続する紙の雪。
「明智さん、一体誰がこんな目印を残して行ったのです。そして、これが賊の逃げた道だということが、どうして分るのです」
二郎が尋ねる。
「紙テープと同じ様に、手品に使う、紙を刻んだ五色の雪です。それをほんの少しずつ、地面へ落して行った。これをたどって来れば賊の住家に達するという目印です。幸い今夜は風がないので、散りもしないで残っていたのでしょう」
「併し変ですね。あの賊がそんな目印を態々拵えて置くなんて。考え得ないことじゃありませんか」
「賊ではありません。あいつの娘の文代という女です」
「賊だって、賊の娘だって、同じ訳です。そんな馬鹿なことが」
二郎は今度こそ、明智が発狂したのではないかと、本当に心配になり出した。