消失せた令嬢
復讐鬼の方には、悪魔は悪魔ながらの理窟もあろうけれど、敵を討たれる玉村氏一家のものは、我身に何の覚えもないことだ。親が若気の至りで、どの様な悪いことにしたにもせよ、それ故に、子や孫が一人残らず、この苦しみを受けなければならぬという道理はない。
父善太郎氏は、親の報いとあきらめもしようけれど、可愛い子供が三人まで、同じ憂き目を見せられるとは、余りと云えば残酷だ。そればかりではない。一郎と妙子とは、已に一度、ひどい手傷を負わされている。その外、善太郎氏の弟の得二郎氏は無残の最期をとげ、二郎の恋人花園洋子は、手足をバラバラに斬りさいなまれたではないか。
アア、何という貪慾な復讐鬼であろう。彼は玉村家の、最後の一人までも、イヤ、一家のものばかりではない。その近親にまで手を延ばして、残酷無比の殺戮を行おうとしているのだ。最早や復讐ではない、立派な殺人狂である。天はかくの如き大悪魔の跳梁を、いつまで許して置くのであろう。
イヤイヤそうではない。自然の摂理というものは存外公平である。企みに企んだ悪事にも、つい思いもよらぬ抜け目があるものだ。
魔術師の場合では、文代の内通がそれであった。彼女は穴蔵水責めの悪企みを小耳にはさみ、隅田川の川口に碇泊していた、賊の汽艇を抜け出して、玉村親子の危難を、名探偵明智小五郎に急報し、彼を案内して旗本屋敷へ駈けつけたのである。
明智はこのことを、電話で警視庁の波越警部に報じて置いたので、深夜ながら、警視庁と小石川警察と、両方から数名の警官が出張し、玉村氏が同行して、別間に待たせてあった書生達と力を合わせ、被害者の救出しに努力した。
救助者の一群は、秘密の階段を駈け降りて、穴蔵の入口に殺到したが、厳重な鉄扉の外に、煉瓦の壁が積み上げてあるので、容易に破れるものでない。
若し一人や二人の救助者であったなら、恐らく玉村親子の息のある内に、救出すことは、到底不可能であっただろうが、多人数の力は恐ろしい、てんでに道具を探し出して来て、煉瓦の継目をこじるもの、叩くもの、蹴飛ばすもの、汗みどろの奮闘で、やっと壁をくずし、鉄扉の錠前を破ることが出来た。
扉を開くと、一度にドッと溢れ出す濁水、先に立った警官達は、はずみを食って、階段の根本まで押し流される騒ぎであったが、兎も角も、親子三人のものを、助け出すことに成功した。
地上の一室へ運んだ時には、三人ともグッタリとなって、殆ど死骸も同然であったが、焚火をするやら、湯を沸かすやら、手を尽した介抱に、善太郎氏も一郎も二郎も、日頃健康な人達のこと故、難なく気力を恢復した。
意識を取戻した善太郎氏が、第一に尋ねたのは、
「妙子は、妙子はどうしました」
と、愛嬢の安否であった。
人々は、暗闇の水中で、妙子さんの姿がなくなった由を聞くと、早速穴蔵へ降りて、隈なく捜索したが、不思議なことには、影も形もない。扉は厳重に閉っていたのだし、水の落ち込む穴から地上へ抜け出すなんて、屈強な男子にも出来ない芸当だ。とすると妙子さんは、一体全体どこへ消え失せてしまったのであろう。
イヤ、消え失せたのは、妙子さんばかりではない。魔術師の奥村源造も、どこへ逃げ去ったのか、何の手掛りも残さず、それに、もっとおかしいのは、肝腎の明智小五郎と賊の娘文代の二人が、いつの間にどこへ立去ったのか、探しても探しても影さえ見えぬのだ。
では、彼等は一体どこに何をしていたのか、玉村父子は首尾よく危難を逃れたのだから、その方は一先ずお預りとして置いて、作者は明智と文代の其後の行動を、読者諸君にお知らせしなければならぬ。
玉村父子救出しの見込みが立つと、明智はもう、その場にクズクズはしていなかった。彼は早くも、妙子さんの姿のないことを見て取り、文代に尋ねると、
「アア、あたし思出しました。あの人達は、妙子さん丈け命を助けて、船へ連れて来る様な相談をしていたのです」
との答えだ。
「それにしても、どうして穴蔵から連れ出したのでしょう。特別の通路でもあるのですか」
「エエ、あたし、それも知って居ります。穴蔵の壁に小さな隠し戸がついていて、そこから、邸の外の原っぱへ抜けられるのです」
あとで検べて見ると、穴蔵の煉瓦の数枚が、倉庫の扉の様に、外から開く仕掛けになっていた。賊はその外へ廻って、目ざす妙子さんを、闇の穴蔵から、ソッと連れ出して行ったものに相違ない。父も兄達も、あの騒ぎの最中なので、それに気づかなかったのだ。
「では、すぐそこへ案内して下さい。あなたはなぜ早く、それを云わないのです」
文代は叱られて、答える術を知らなかった。彼女は最初からそこへ気づかぬではない。だが、そこには、まだひょっとしたら父が潜伏していないとも限らぬ。いくら正義の為とは云え、恋の為とは云え、父を売るのに、躊躇を感じない娘があるだろうか。これ程苦しんでいるものを、まるで思いやりもない様な、明智の言葉がうらめしかった。
と云って、もうここまで来たものだ、今更ら父をかばい立てしている訳には行かぬ。
「エエ、ご案内しますわ」
彼女は悲しい決意を示して答えた。