まだら蛇
それより少し前、水上署の大型ランチが、賊の汽船に横着けになった。
艇上の波越警部は、船内の明智を、しきりと呼び立てたけれど、何の答えもなく、第一賊船の甲板上には、いつまで待っても、人影さえ現われぬので、業をにやして、兎も角ランチから汽船へと、乗移って見ることにした。
さて、波越警部達が、どうして朝まだき、賊の汽船を襲うに至ったか。そして、際どいところで、賊が海中に身を投じて逃げ去ろうとするのを、食いとめることが出来たのか、偶然にしては少し話がうますぎるではないか。
イヤ、決して偶然ではなかった。これも亦明智小五郎の機智が奏効したのだ。
前夜の三時頃、一人の巡査が月島の海岸近くを巡廻中、海辺の石垣の方から、異様なうめき声、イヤ寧ろ叫び声の響いて来るのを耳にした。
不審に思って、駈けつけて見ると、海老の様に、両手と両足を背中で結びつけられた人物が、石垣の上を転がりながら、悲鳴を上げていた。
用意の懐中電燈で照らして見ると、立派な背広服を着た、併し余り人相のよからぬ男が、繩目の痛さに耐え兼ねて、オイオイ泣いているではないか。
「どうしたんだ。喧嘩でもしたのか」
と声をかけながら、ふと洋服の胸を見ると、そこに手帳でも破ったらしい紙切れが、婦人の頭髪用のピンで止めてある。
「オヤオヤ、変なものが止めてあるぞ」
と、引きちぎって、調べて見ると、紙切れには、鉛筆の走り書きで、次の様な妙な文句が書きつけてあった。
この者魔術師一味の小賊なり、直ちに警視庁波越警部に引渡されたし。
明智小五郎
「魔術師」と読んで、巡査は飛上った。しかも手紙を書いた人物が、有名な明智小五郎なのだ。
彼はもよりの交番に飛込むと、直ちに警視庁を通じて、このことを波越警部の私宅へ報じた。警部は深夜ながら、時を移さず現場に駈けつけ、怪しの男を、手ひどく訊問した。この場合、拷問類似の処置も止むを得なかった。そして、遂に賊の口から、委細の事実を聞出すことが出来たのだ。
明智としては、別に警察の応援を望んでいなかったかも知れない。併し、このちょっとしたいたずらが、案外な効を奏した。
波越警部は、水上署に事の次第を告げて、大型ランチの出動を促し、水上署の警官達と共に、自から数名の刑事を率いて、それに同乗し、夜明け前の隅田川の、黒い浪を蹴立て、賊船にと急いだのである。
お話は元に戻る。波越警部は、船内から答えのないのを不審に思いながら、数名の部下と共に賊船の舷側をよじ昇り、甲板をあちこち探しながら、偶然にも、一人の死体と、二人の気絶者と、生人形の様に突立った明智小五郎との、あの恐ろしい沈黙の部屋へと近づいて行った。
「ヤ、蛇だ」
刑事の一人が頓狂な声を立てたので、驚いてその方を見ると、外へ開け放たれたドアの下から、ニョロニョロと、小豆色の、小さなまだら蛇が、這い出して来るのが眺められた。
人々は何ぜか、ゾッとして立ちすくんだ。
思いもよらぬ船の上で、突然蛇に出くわしたからでもあった。その蛇の頭部が、菱形にふくらんで、毒蛇の相を現わしていたからでもあった。だが、その外に、もっと別の感じがあった。
その蛇は形は小さかったが、背後に、何かしら大入道の様な、巨大なものの影が感じられた。物の怪にでも出会った様な、言葉では云い現わせぬ、一種異様の戦慄が、人々の背筋を走った。
蛇は、立ちすくむ人々を尻目にかけて醜怪な鎌首をもたげながら、踊る様な恰好に、左右に身体を振り動かし、部屋の外へ廻って、見えなくなってしまった。
蛇を追って二三歩進むと、開いたドアから、室内の異様な光景が眺められた。
「ア、明智さん。ここでしたか。……だが、この有様は……」
波越警部は二の句がつげなかった。
何という陰惨無残の活人画であろう。青ざめた蝋人形の様に、転がった二人の娘。断末魔の苦悶をそのままに、血まみれの指で、空間をかきむしった、怪賊の死体。夢見るが如く、ボンヤリ佇んでいる明智小五郎。
「明智さん。僕ですよ。波越ですよ」
ポンと肩を叩かれて、明智はやっと正気に返った。そして、警部に問われるままに、有りし次第を語った。
「ヤ、御苦労でした。大成功です。賊の首魁が死んでしまったのは、少々残念だが、これも天罰と云うものでしょう。手下共は皆あちらの部屋に縛ってあるのですね。一網打尽でしたね」
そこで警部は、刑事達に命じて、気絶した二人の女性をベッドのある部屋に運び、人工呼吸を施させたところ、二人とも、間もなく意識を取り戻した。それがすむと、船尾の部屋の七人の小賊共を引立てて、警察ランチへと乗移らせた。
それらの処置が一段らく終った時、元の船室に立戻った警部が、ふと思い出して、まだ夢醒め切らぬ面持の明智に云った。
「この船には蛇がいますね、賊が飼っていたのでしょうか」
それを聞くと、明智の顔色が、サッと変った。
「エ、何ですって。あなたはその蛇を、ごらんになったですか」
その声が、余り頓狂だったので、今度は警部の方で、びっくりした。
「見ました。小さいけれど、何だか毒蛇みたいな、いやな恰好をしていました」
「どこで? どこで見たのです」
「アア、そうそう。さっき、この部屋から這い出して来るところを見たのですよ。だが、あなたは、なぜそんなにびっくりなさるのです」
「僕は幻を見たのだと思っていました。だが、あなたの目にも映ったとすると、幻ではない。一体そいつはどちらへ行ったのです」
警部が、船室の外を曲って見えなくなった由を答えると、明智はセカセカとその方へ歩いて行って、隅々を探し廻ったが、あの蛇が今時分までその辺にいる筈はない。
彼は空しく引返して来て、彼らしくもない恐怖の表情を浮べながら、妙なことを云い出した。
「奥村源造の死にざまは、さっきもお話した通り、目も当てられぬ無残なものでした。あいつは恐ろしい執念に我れと我が身を苦しめて、ゾッとする様な呪の言葉を叫びつづけながら、悶え死に死んでしまったのです。……
僕はそれを、どうすることも出来ないで、じっと眺めていました。息絶えて動かなくなった死骸から、俺の怨霊は永久に生きているのだという、あの恐ろしい叫び声が、まだ聞えて来る様な気がしました。……
奴の指先きの、幽かな動きが、ピッタリ止まると同時に、つまり、奴が全く死に切った刹那、ふとあいつの血だらけの顔を見ると、僕は思わず逃げ出したい衝動を感じました。なぜと云って、あいつの顔には、毒々しい小豆色の小蛇が、まるでそこから吹き出した血のりのかたまりででもある様に、のたうっていたからです。……
その小蛇は、しばらくの間、顔の上をノロノロと這い廻って、焔の様な黒い舌で、血のりを嘗めていましたが、やがて、顎を伝って、首から床へと這い降りると、何とも云えぬ、丁度奥村源造の呪いの言葉を思出させる様な、いやないやな恰好に、鎌首をもたげながら、スルスルと僕の方へ這い寄って来るではありませんか。……
僕はギョッとして、その辺にあり合う棒切れを掴むと、いきなり小蛇をなぐりつけようと身構えましたが、蛇もその勢に恐れをなしたのか、僕をよけて、部屋の外へ消えてしまったのです。ただそれ丈けのことです。でも、これが偶然の出来事でしょうか。船の中に蛇がいたのも変です。しかもその蛇が、あいつが息を引取ると同時に、血のりの中から湧出す様に、姿を現わしたのは決してただ事でありません。若しやあの蛇が、死体から抜け出した奴の執念深い怨霊なのではあるまいかと思うと、笑って下さい、僕は何かに身を縛られた様になって、立ちすくんだまま動けなくなってしまったのです」
聞いていた波越警部も、その小蛇が、背筋を這ってでもいる様に、ゾッと気味悪くなって来た。
彼等は両人とも、怪談を信じる様な、古風な人間ではなかった。それにも拘らず、何か物の怪に襲われた様な、異様な戦慄を感じたのは何故であったか。若しや、この小蛇こそ、明智が想像した通り、怪賊魔術師が、死を以てこの世に送り出した、復讐の魔虫ではなかったのであろうか。