異様な捕物
さて、怨霊のたたりは、それで終ったのではない。善太郎氏の次には三人の兄妹がある。彼等は父の死を悲しんでいる暇もなく、早くも矢つぎ早に襲いかかる怨霊の魔力に悩まされなければならなかった。
一郎と二郎とは、西洋風に毎朝ベッドの中で、コーヒーを飲む癖があった。その朝も(善太郎氏の葬儀をすませて数日後のことだ)小女の持って来たコーヒーを飲んだが、間もなく、烈しい腹痛を覚え、吐き下しを始めた。
二人とも、その朝のコーヒーが余り苦かったので、半分程しか飲まなかったが、若しすっかり飲んでいたら、一命にも関するところであった。分析の結果、コーヒーの中に、ある毒物が混入してあったことが分ったのだ。召使一同厳重に取調べられたが、一人も疑わしい者はなかった、皆永年玉村家の恩顧を受けたものばかりであった。
今度は毒蛇ではない。あのいまわしい生物は、已に死んでしまった。仮令生きていたところで、蛇が毒薬を混ぜる筈もないのだ。やっぱり人だ。だが、復讐鬼一味のものは、今は一人も残っていないことが明らかになっているではないか。とすると……とすると……いくら考えても、全く不可解と云う外はない。
困じ果てた波越警部は、今日も又、彼の唯一の智恵袋明智小五郎を訪ねて、残念ながらその教えを乞う外はなかった。
開化アパートの書斎へ警部が入って行った時、明智は、机の上に大型の書物を開いて、読み入っている様に見えた。グロースの犯罪心理学だ。
「読書ですか」
波越氏が、独逸語の頁を覗き込みながら、云った。
「イヤ、本を開いて、考えごとをしていたのです。読んでいた訳ではありません」
明智が、ボンヤリした顔を上げて、答えた。
「何を考えていたのです。奥村源造の怨霊についてですか」
「イイエ、もっと人間らしいことです。美しい幻です。僕だって、犯罪以外のことを考えない訳ではありません」
「ホウ、美しい幻? 景色ですか。絵ですか。それとも歌ですか」
警部も柄にない云い方をする。
「もっと美しいものです。人の心です。純情です」
「純情? といいますと」
「奥村文代を、早く出獄させてやる訳には行かぬでしょうか」
「アア、賊の娘の文代ですか。成程成程、あの娘は可哀相です。あれは最初から、我々の味方だったのですからね。悪魔の様な父親との間にはさまって、どんなにか心を痛めたことでしょう。無論無罪放免ですよ。ただ時期の問題です」
「いつ頃でしょう」
「ハハハ……、あなたの美しい幻というのは、つまりその文代のことだったのですね。あの美しい文代が、あなたの為に、どれ程つくしたかということは、僕もよく知っていますよ。文代の恋がなかったら、玉村家の人は、とっくに死に絶えていたのですからね」
「僕はなぜか、あの娘のことが忘れられないのです。父親とは似てもつかぬ、身も心も美しいあれの幻が、目先にちらついて仕方がないのです」
明智は子供らしく、ありのままを告白して、少し顔を赤らめさえした。
「仮令犯罪者の娘でも、文代なれば、あなたがどれ程親しくなさろうと、僕は苦情を云いませんよ。あんな純情の女は滅多にあるものではありません。……玉村の妙子さんと比べても、決して見劣りがしませんからね。顔も心も」
明智は妙子の名を聞くと、なぜか眉をしかめた。
妙子とは嘗つてS湖畔にボートを浮べて、友達というよりは、恋人の様に語り合った記憶がある。玉村家の事件に手を染めたのも、妙子さんの切なる依頼があったからだ。波越警部も薄々それは感づいていたに違いない。と思うと、恥かしさ、腹立たしさに、彼は不快の表情を隠すことが出来なかった。今では彼は妙子がゾッとする程嫌いなのだ。文代を知ったからばかりではない。もっともっと深い理由があった。
波越警部は、明智のこの心持を察しる程敏感ではなかった。彼は云いたいままを口にした。
「妙子さんと云えば、今度の毒薬事件について、あなたが冷淡だといって、不平をこぼしていましたっけ。もっと熱心になって下さる様に、お願いしてくれということでしたよ」
明智は黙って、やっぱり眉をしかめたままだ。返事をするのも不愉快だという顔付である。
「イヤ、妙子さんばかりじゃない。僕も実は、あなたの本当の御意見が聞き度いのです。あなたは玉村善太郎氏が殺された時、この犯罪は高等数学だと云いましたね。僕はその後ずっと、あれが気掛りになっているのです。どう考えて見ても、その意味が分らないのです」
波越氏は、話を本題に導いて行った。
「凡ての既成観念をうっちゃってしまうのです。赤ん坊の様な単純な頭になって、出直すのです。大人というものは、浮世の雑念に捉われ過ぎて、却って本当のことが分らない。ありありと見えている物が、見えないのです」
明智は禅宗坊主みたいな云い方をした。探偵学もある意味で禅と同じ様なものかも知れない。こいつが、実際家の波越警部には一番苦手だ。彼は苦笑しながら、
「サア、そこが分らないのですよ。君の所謂『盲点』という奴でしょうが、僕には、そのありありと見えているものが、まるで見えないのです。併し、あなたには、本当にそれが見えているのですか」
と逆襲した。
「見えていますとも」
明智は平然として答えた。
「すると、つまり、君は玉村氏を殺し、一郎二郎の兄弟に毒を盛った真犯人を、知っている訳ですか」
警部の鉾先は益々鋭い。併し、明智は少しも驚かぬ。
「知っているのです」
驚いたのは警部の方だ。無理もない。この素人探偵は、警察があれ程騒いでも、片鱗さえ掴み得ぬ謎の犯人を、知っているというのだ。
「まさか冗談ではありますまいね。僕は真面目なのです」
「冗談ではありません」
「では、聞かせて下さい。その真犯人は何者です。どこにいるのです」
波越警部は、意気込み烈しくつめよった。
「今夜十時まで待って下さいませんか。決して逃げる心配はありません。かっきり十時に犯人をお引渡ししましょう」
明智はまるで、ありふれた世間話でもしている調子だ。
「エ、エ、なんですって、すると君は、その犯人を已に捉えているのですか。どこです。どこにいるのです」
「そんなに慌てることはありません。今、その場所を云いますから、よく覚えて下さい。そして、あなた一人で、かっきり十時に、そこへ来て下さい。多分犯人をお引渡し出来ると思います。場所は本郷区のK町です。電車で云えば肴町の停留所で下車して、団子坂の通りを右へ、三つ目の細い横町を左へ折れて、生垣に挟まれた道を一丁程行くと、石の門のある古い西洋館があります。まるで化物屋敷みたいな、あれ果てた空家同様の建物です。その石門を入って、建物の裏へ廻ると、三つ並んだ窓があります。その一番左の端の窓が開いていますから、そこから部屋の中へ入って下さい。電燈もない真暗闇ですが、その闇の中に僕がお待ちしている訳です。少しも危険はありません。必ず一人でお出で下さい」
明智の云うことは愈々変だ。何という奇妙な捕物であろう。
「よく分りました」警部は明智の指定した道順を復誦して見せた。「だが、どうして君はその犯人を探し出したのです。そいつは一体何者です」
「非常に意外な人物です。無論あなたもご存じの者です」
「誰です、誰です」
警部は思わずせき込んで尋ねる。
「……」
明智が、波越氏の耳に口を寄せて、何事かボソボソと囁いた。
「そ、そんな馬鹿なことが!」
警部は飛上らんばかりに驚いて叫んだ。
「あり得ないことです。いくらなんでも……何か確証があったのですか。それについて」
「詳しく云わなければ分りませんが、無論証拠もあるのです」
それから、明智は三十分程もかかって、その真犯人を発見するに至った顛末を、詳しく物語った。それを聞いてしまうと、波越氏もやっと明智の意見に承服した。そして、十時には必ず指定の場所へ行くことを約して、辞し去った。