明智は、さい前波越氏に教えた通りの道順を、繰返した。併し、妙子には裏の窓から入れとは云わなかった。
「その石門を入ると突当りに玄関があります。ドアを押せば開く様になっています。あなたは、一人でそのドアを入って、廊下を真直に歩いて行くと、開け放った広い部屋に出ます。その部屋の右側に、緋色のカーテンが下っている。カーテンの向側には、別の小部屋があって、電燈がともっています。あなたは、緋色のカーテンの合せ目を開いて、そっと中を覗けばよいのです。そこに犯人がいるのです」
何という奇妙な方法だろう。妙子も波越警部と同じく、なぜそんな廻りくどいことをするのかと、不審を抱かないではいられなかった。
「犯人を見ようと思えば、今僕の云った順序を、完全に守って下さらねばいけません。若し間違うと、非常に困る事が起るのです」
明智は更らにもう一度、空家への道順と、隙見の方法を繰返した。
「でもあたし、何だか気味が悪うございますわ。あなたとご一緒に行けるといいのだけれど」
「それは駄目です。あるトリックによって、犯人をその部屋へおびき寄せるのが、僕の仕事なのです。そして、波越警部に引渡すまでは安心が出来ません」
「では、波越さんにお願いして、お伴出来ないでしょうか」
「それも駄目です。そんなことを頼めば、なぜ秘密を打開けたかと、僕が叱られますよ。あなたは一人でいらっしゃい。でなければ、酔狂な真似はおよしになった方がよいでしょう」
取りつく島がなかった。
彼女はなおも執拗に、犯人の名を聞かせてくれとせがんだけれど、明智は固く口をつぐんで語らなかった。
明智に分れてアパートを出た妙子は、その不気味な空家へ行って見ようか、どうしようかと、とつおいつ、長い間思案をしていたが、とうとう行って見ることに心を極めた。
早く敵の顔が見たいという憎しみ、一体誰だろうという好奇心、小説的な冒険の誘惑、色々な心持が、彼女を行け行けとそそのかした。併し、若しそれ丈けの理由であったら、彼女は行かなかったかも知れない。
外に一つ、どうしても行かずにはいられない理由があった。翌朝まで待てば分ることを、その僅かの時間さえ待っていられない、せっぱつまった気持があった。見るのも恐ろしい。だが、待つのは猶更ら恐ろしい。何とも云えぬいらだたしさに、彼女は息づまる様な苦悶を味った。
彼女は、態と肴町で自動車を降りて、団子坂通りを指定の空家へと歩いて行った。
横町を曲ると、陰気な住宅街で、頭より高い生垣が、両側にまるで八幡の藪不知みたいに、うねうねと続いていた。
闇夜は距離を二倍に見せる。さ程でもない道のりを、妙子は、この生垣の中で、迷児になってしまうのではないかと思った程だ。
だが、やっとそれらしい石門が見つかった。星明りにぼんやり見える西洋館の屋根は、真黒な大入道の様であった。余りの不気味さに、
「いっそ帰ろうかしら」
と引返しかけたが、といって、犯人の隙見をあきらめる気にはなれぬ。単なる好奇心なら、引返しもしたであろう。だが、彼女には、彼女の外は誰も知らぬ、好奇心以上の、せっぱつまった必要があったのだ。
足音を忍ばせて、門を入り、雑草の生いしげった地面を、玄関へとたどりついた。
押して見ると、ドアは音もなく開いた。真直な廊下の突当りに、幽かな光が見える。多分あれが犯人のいる部屋なのであろう。
心臓が異様に波打ちはじめた。
アア、もう少しで、ほんの数秒の後には、真犯人を見ることが出来るのだ。と思うと、妙子は苦しさに息がつまり相だった。身がすくんで、ヘナヘナとくずおれ相な気がした。
だが、全身の気力をふるい起して、やっとそれに打勝った。
彼女は、広い廊下を抜足差足、まるで彼女自身が、何かの怨霊ででもある様に、音もなく、奥へ奥へと進んで行った。
明智の言葉にたがわず、広い部屋に出た。右手を見ると、向側の電燈が、緋色のカーテンを、美しく照らしている。
愈々その時が来たのだ。
あのカーテン一枚を隔てて、向側には、恐ろしい犯人がいるのだ。
仮令相手が女にもせよ、気づかれては大変だ。絹ずれの音も、幽かな空気の動揺も、注意しなくてはならぬ。
妙子はつま先で歩きながら、息を殺して、カーテンに近づいた。
じっと聞耳をたてても、何の気配も感じられぬ。犯人は、身動きもせず、誰かを待受けているのではなかろうか。誰を? 若しかしたら、妙子その人を待受けているのではないか。と思うと、身体中の産毛が、ゾーッと逆立った。
だが、ここまで来たものだ。今更ら躊躇している場合でない。入口で手間取ったので、約束の十時はとっくに過ぎた筈だ。
妙子はソッとカーテンの合せ目に指をかけた。そして、ジリリ、ジリリ、動くか動かぬか分らぬ程の速度で一分ずつ一分ずつそれを開いて行った。