それよりも、うつむいて、ひとり本を読んでいる。
いわゆる本の虫である。
どこかへ出かけようという時は、公園や海よりも「図書館がいいな」。今や遊園地でさえ「本屋さん!」にはかなわない。
いつからこんなに、と不思議に思うほどである。私自身は、通勤電車で軽く読める本を持ち歩く程度だから。
元々娘は、自他共に認める“パパっ子”で、幼い頃から自分の体ほどもある本をよちよちと運び、私のひざの上や私の布団のとなりで本を読ませた。
やがて文字を覚えはじめると、たどたどしくも大声で音読し、私をつかまえては読み聞かせをした。
そうするうちに挿し絵のない本をひとりで黙読するようになり、自分好みの主題で本を選ぶようになった。
この頃にはそう、お風呂も自然と一緒に入らなくなったし、登校する時に玄関を出たら一度もこちらを振り返らなくなった。
今やもう、本と言えば学校や図書館から自分で借りてくるもの、または自分のお小遣いで買うものとなった。
買っても追いつかないのか、買い物へ出かければひとりで書籍コーナーで立ち読みをする。声をかけなければおそらく何時間も。
先日、私の実家でのことである。
久々の実家訪問とは言え、両親とそれほど話すこともなく手もちぶさたの私は、置き去りにしていた自分の古い荷物をひもといて、整理のまねごとをしていた。
本が出てきた。
数十冊の中の、特に私の胸がはねたのは、中学時代に夢中で読みあさっていた、小人が主役のファンタジーのシリーズだった。
「ああ、そうだ…」と蘇る。何か古い約束を思い出したかのような、私を見守る人にふと気づいたかのような感慨。
と、私のとなりで、なぜだか私以上に目を輝かせていたのが、他ならぬわが子だった。段ボールの中の本と私とを、ゆっくり交互に見つめている。
「ほしい?」「ほしいっ」
「いいよ」「いいのっ?」
感激で娘は泣き出さんばかり。
でも。実は、娘以上に感激していたのが、私だった。
本が無駄にならなかったからではない。久しぶりに娘に見つめられたからでもない。
自分の人生と娘の人生が、二本の道としてぼんやりと心に浮かんだのだ。
娘の人生は私の人生の中にあるわけではなく、別々のものであり、また対等なものなのだ。そんなあたり前のこと。
この本を開いた娘は、まちがいなく物語の世界にすっかり入りこむ。あの頃の私と同じように、どこかの時間でどこかの場所で没頭するだろう。
だが、その時間も場所も、そして感じ方も、それは彼女だけのものなのだ。当時の私自身で証明されているようなものだ。
それはさびしくもあり、また、どこか誇らしくもある。
もはや娘は、私の腕の中や背中の上でもなく、私のとなりに並んで歩きはじめたのだ。一緒に、でもそれぞれに。
そうなれば、父親としてすることはたったひとつ。見守ること、なのだろう。まだまだ覚悟はできないけれど。
ただ、心強い味方と出会えた。
本である。
今回、かの本は三十年の時を超え、私たち親子をつないだ。そしてたぶん、何気なく私たちを見守ってくれている。
まったく本と言うのは、人と人の間、時と時の間を行き交うことができる上に、それらをつなぐ力まで持っていたのだった。
かくして、私は実家から多くの本を持ち帰らされ、娘の本専用のスペースを作らされた。自分の文庫として呼び名までつけた娘は、喜色満面である。
だが娘は知らない。
並んだそのシリーズの本の中から、毎朝ひそかに一冊ずつ姿が消えていることを。
さよう、通勤電車の中でその一冊に夢中になっている、私のしわざである。
少し、ドキドキしている。