震災後大分経ち、幾分落ち着きをとりもどしたころに目に入り、家に持ち帰り休みの日に一気に読み終えた。
心があらわれた。乾いた土にジョウロで水をかけてもらったようだ。
舞台はアメリカ北東部の工業都市。ごみ捨て場になった土地に、決して豊かではない様々な国の出身者が、ごみをかたづけて、種をまき、救われていく。始まりは、ベトナムから来た少女の豆の種まきだった。
私の家は大津波で流され土台だけが残った。敷地内で働いていた父親と兄は遺体で見つかった。私は何日か避難所となった地元の小学校にいたが、その後に市内のアパートを借りて住所を移した。ようやくアパートに震災前に注文していた野菜や花の種が届いた。
父と兄の葬儀の目途がついたころ、かつての家の前でプランターを用意して種をまいた。
五月に入っており種をまくには大分遅いとは思ったが、種をまくことに自分の再生をかけていたのかもしれない。それから朝早く水やりに元の家に行くのが日課となった。
家の前の畑は、この物語の土地と同じくひどく荒れた状況であった。
津波の後、敷地にあった瓦礫と流木は自衛隊や市の受託業者が取り除いてくれたが、土は瓦礫のガラスや石の破片を含み瓦礫処理の重機の重みで固くなっていた。塩分を多く含んでいた。
途方にくれていたが、ボランティアとして来てくれた人たちが一緒に鶴嘴(つるはし)を使って土を砕きながら瓦礫を拾ってくれたので、私もやり抜く勇気が出てきた。
ボランティアには、台湾やウクライナからの留学生もいた。休暇を取って駆け付けた関西や九州の人もいた。
ようやくできた三十坪ほどの畑にプランターで育てたトウモロコシ、トマト、ピーマンなどを植えた。また、地元の学生や関東から来たボランティアの人とヒマワリをまいた。
トウモロコシ、オクラ、ナス、スイカ、メロンは順調に育った。庭先には、大きなヒマワリの群生ができた。
九月、畑の草取りを手伝ってくれた別のボランティアの人たちと作業の後に、みんなでスイカを食べた。少し塩の味がしたが、うまかった。
期せずして、自分の畑が、小説の舞台のように様々な人たちとの交流の場になっていた。
もう一度この本を読んだ。植物を育てる喜びは人類共通のものだとつくづく感じた。また、一緒に種をまくことから他人とのふれあいや理解が始まるのだと思った。誰かが種まきを始めなければならないと感じた。
私は、もう一度、家のあった海辺の村に住み、種をまき続けたいと思う。また、できれば遠く離れた国の荒れた土地に、地元の人たちと種をまきたいと思う。