姑はとても気丈な人だった。そして気位が高く頭の良い人だった。だからといって、意地悪だったり攻撃的だったわけではなく、一口で言うならとても良くできた人だった。長男に嫁いだ私は、人並みの苦労はしたかもしれないが、姑に嫌味を言われたり泣かされたりしたことは一度もない。もちろん表立った喧嘩をしたこともない。
姑は共働きの私たちの子ども三人を育て上げると、好きな畑仕事をしながらのんびり暮らしていた。早くから腰が曲がってしまったため、あまり表には出たがらず、老人会や同級生との旅行も徐々に減っていき、私が勤めを辞めた頃、そう八十歳位からは全くといっていいほど出かけることはなくなった。そう遠くない所に娘が三人いるのに、泊まることはおろか半日いや一時間さえ行こうとしない。寝ているわけではない。身の回りのことは全部できるし、野菜を採ったり洗濯物を畳んでくれる。耳が遠くなったのでテレビはあまり見なくなったが、三紙とっている新聞は隅々まで読む。歌は上手だし、話も好き。老人会の催し物やデイサービスを勧めても頑として受け付けない。出かけるのは月に一度の医者と二か月に一度の美容院だけ。それでも「私は、ちっとも寂しくない。こうして気儘に家にいるのが一番好き」と言う。
私は月初めに少し働いたり、趣味などでそこそこ出かけてはいたが、いつも私が帰るまで食事もせず待っている姑が頭から離れなかった。子どもたちも家から離れ、三人だけになった生活に姑の関心はすべて私に向くことが、だんだん重くなってきた。「もっと馬鹿な人なら良かったのに」「いっそ惚けてしまった方が楽なのかも」などと罰当たりなことを考える自分が怖かった。
そんなある日、市の図書館で大活字本のコーナーを見つけた。大活字本とは、弱視障害者や高齢者でも読めるように二十~二十二ポイントの大きな活字で見るからに読みやすそうな本だ。発行部数が少ないせいかどれも三千円絡みと高い。「これなら姑にも楽に読めるかも」と思い、試しに二冊借りて帰ると案の定貪るように読み始めた。 それから、二週間毎の図書館通いが始まった。一回に四~六冊借りてくるのだが、次第に前に借りた本がわからなくなってしまい、索引のアから順に借り始めることにした。時代小説、恋愛小説、随筆などジャンルが様々なので「おばあちゃん、どんな本が一番好き?」と聞くと「どれもみんな面白いよ。若い頃本が読みたかったけど、夜なべ仕事をして読めなかったからね」と言った。
そして、来る日も来る日も本を離さなくなった。姑は相変わらず外へ出ることはなく、今までと何ら変わりなかったが、私は以前のように姑を重く感じることは少なくなった。 姑にも好きなことがあってそれに熱中しているという安心感だったろうか。冬の日差しを追いかけて縁側で本を読む姑。夏の座敷で本を枕元に置きまどろむ姑。年とともに本を読むペースは次第におちていったが、九十三歳で亡くなる三週間前まで読み続けた。その数は八百冊を超えていた。
棺には天国でも本が読めるようにと、杉本苑子が書いた『孤愁の岸』を入れた。「この本は良かったね―」と、いつか姑が感慨深げに話したことがあったからだ。
四十九日の法要をすませた後、私は『孤愁の岸』を読んだ。薩摩藩家老、平田靭負が濃尾川普請の総奉行としてそれを成し遂げる壮大な物語だ。主人公平田靭負の、孤独で誇り高き生涯を姑に重ね合わせ、涙が止まらなかった。きつい姑に仕え大勢の義兄弟と暮らした日々。早くに夫を亡くし六人もの子どもを育てた日々。何一つ愚痴を言うことなく誇りを捨てなかった。健康に細心の注意を払い、三週間しか病まず、しかも死の三日前まで意識のしっかりしていた見事な最後。泣きたいこともあったろう。弱音を吐きたいこともあったろう。私は姑にしっかり向き合い、姑の心の奥の寂しさをわかろうと思ったことがあったろうか。それどころか、私の心の葛藤などお見通しで、いつも穏やかな笑顔を絶やすことがなかったのだ。
姑が逝ってから三年半になる。秋の日が濃い縁側で私はゴマの選別をしている。姑がそうしていたように。