おじいさんは山に木を切りにおばあさんは川に洗濯に行きました】
四歳の私は週に二度、母の自転車に乗せられて病院へ通っていた。
昭和二十年代末、母の自転車は軽快な婦人用ではなくスタンドのがっちりした、堅牢で黒い実用自転車だった。
前かごには着替えなどの入った風呂敷包み、荷台の補助椅子には私が座った。
「ちゃんと掴まって」。手元と足元の確認が済むと母は勢いよくスタンドを蹴り上げた。
家から病院までの三十分間はお話の聞ける楽しい自転車旅行だった。
お話と言っても、いつも桃太郎だが脇役達は毎回少しずつ違っていた。
例えば、川かみから流れて来た大きな桃。おじいさんとおばあさんが力を合わせても川から引き上げることができない、そこに金太郎が現れて、桃を軽々と引き上げるとクマの背中に乗せて家まで運んでくれた。また力を貸してくれたのは金太郎ばかりでなく浦島太郎や孫悟空、小さな一寸法師が大きな桃を楽々と持上げることもあった。
三匹のお供も犬、サル、キジだけでなくサルカニ合戦の臼エモン、蜂ゴロウ、栗ノスケと母が名付けた仲間達。「女の子は力が弱いからね」とかぐや姫、白雪姫、赤ずきんちゃんにシンデレラを加えた女子四人組などのこともあり聞きあきることはなかった。
自転車で話す母の声はとても大きく、腰にしがみつき脇腹から顔をのぞかせて聞いている私の耳には自転車の軋み音も砂利道の音も邪魔にならなかった。
家と病院の間に大きな川があり堤防の上までは長い坂道がだらだらと続いていた。
母は坂の手前で「ちょっと腰の手、離して」と言うと自転車の乗り方を立乗りに替え身体を右に左に揺らして坂を登って行った。
長い橋を渡り切ると登り坂とはまるで違う短くて急な下り坂。登り坂ではやめなかったお話もここで一旦中止。
スピードを抑えるブレーキ音が断続的に響き私は両腕をぐっと開いてハンドルを握っている母の腰にしがみついた。
坂を下りきるとお話はすぐに始まった。
【よし! 行くよ。桃太郎はそう言うと、犬とサルとキジを従えて鬼ヶ島に上陸しました】
いつもの自転車置場に着くと母は私をおぶり、風呂敷包みを抱えると桃太郎が鬼ケ島に上陸した時と同じ言葉「よし !行くよ」を二度繰り返した。一度目は大きな声で、二度目はいつも小さな声だった。
私の記憶にある病院は玄関横で靴を預けた母が下足札とスリッパを受取るところまで。この後、先生や看護婦さんにどのような処置を受けたか今でも思い出すことができない。いつも目を覚ますのは自分の布団の中で母がいて学校から帰った兄がいた。
昭和二十七年初夏、よちよち歩きの私は北海道全域を襲った小児マヒを発病した。
当時、小児マヒに対する最新治療は腰椎と腰椎の間に薬液を注射する方法が取られていた。
「子供が完治するならどんな治療でもかまいません」と気丈に振舞った親ですら、おびえ泣き叫び失神するわが子の姿に治療を断念したと言う。
母はなぜ桃太郎話が好きなのかと私の発病当時のことを話してくれたのは父が他界する三ケ月程前のことだった。
「風邪です」と言われていたお前が一晩で手も足も動かなくなり、慌てて行った大病院で「お子さんは小児マヒです。良くて寝たきり、呼吸マヒにでもなれば……」と宣告された。
母さんは「私が早く気が付いてさえいれば」と泣いてばかりいた。それでも一分の望みをかけて脊髄注射治療を受けると決めてからはピタッと泣かなくなった。
そして「あの子は桃太郎。小児マヒをやっつける桃太郎。あの子を困らせるたくさんの鬼達を懲らしめて元気に帰ってくる桃太郎なの」と自分に言い聞かせたと言う。
鬼退治に出てから六十余年、桃太郎は母の願いが叶い右足に補装具使用の障害は残したものの、妻や子、孫と言う幸せをどんどん生みだす宝物を得て鬼ケ島から帰ってきた。
八十七歳になる母は二年ほど前から「お父さん背中痛くないかい」「注射、痛かったねぇ」などと涙を流すことが増えて来た。
「おばあちゃん大丈夫、お父さん桃太郎が悪い鬼をみんな懲らしめたから」。妻の言葉が終わる前に何ごともなかったかのような笑顔の母がお茶を飲んでいる。