子は巣立ち、今は夫とふたり暮らし。庭のなんてんは、たわわに実をつけていた。小鳥たちが種を運んでくれた、恵みのなんてんだ。
早速、なんてんの枝を四?五本切ると、備前の壷にいける。壷にいけられたなんてんは、おさなごの、かたことのように愛らしい。朝、夕、その前に正座して柏手を打つ。
私は、一週間後に、胆嚢摘出手術を受けることになっているのだ。
「ポリープの大きさが一センチをこえると癌の可能性が高いんですよ。あなたの場合は、一センチを軽くこえていますからね」
四十代と思われる男性の医師は、精密検査の結果に目をあてながら、こともなげに言われた。そのさりげなさが、かえって、私の心を立ちどまらせる。胆嚢癌は、治癒率が低いと聞く。以来、何度医師の言葉を反芻してきただろう。
いつもどおりに家事はこなしていたが、乳白色のガラス瓶の底に閉じこめられているような、不安な日々だった。
夫は、なんてんに柏手を打つ私を横目に見ながら「ちゃんと食欲があるのに、癌のはずがないわ。なんてんになんか、手をあわせんでもええ、ええ、心配いらんわ」と言う。
入院の前日、夕食の材料を買ってきて、玄関のドアをあけると、夫があわてて、なんてんをいけた壷から離れるのが見えた。
「お父ちゃんも、なんてんを、おがむ気になったんか」
「なにとぼけたことを言うとんじゃあ。あほらしい」
ぷいと横を向いた夫の首は、細かった。
麻酔からさめると手術は終わっていた。医師が病室にこられたのは、数時間後だった。
「小さいポリープが五つも重なってまして、それが断層写真では、ひとつの大きいポリープにうつったんですよ。念のため組織検査にだしますが、たぶん良性ですよ」
病室を去る白衣の背中が「よかった。よかった」とひとりごとを言った。
「人間がオッチョコチョイじゃったら、胆嚢までオッチョコチョイになるんじゃなあ」
医師を目で見送った後、夫は言う。
窓の外の、冬の、凛と澄んだ青空が私に流れこんできて、心の靄が、ゆっくりと晴れてゆく。
退院から一ヶ月、壷のなんてんは、まだ実を落としていない。今度は、夫の無事安泰も願って盛大に柏手を打つ。
なんてんの実は「まかせてね」とほほえむように、赤く、赤く、輝く。私の心に、ほつほつほつと、灯をともしながら。