ある三月の午後、母は、最寄りのデパートの広告を眺めながらそう言った。あきらめというのとはまた違う、深い悟りのようなものを漂わせていた母の言葉に、私は言いようのない寂しさのようなものを感じた。
今まで元気で働き者だった母が、今年になって腹部に不調を感じ病院に行くと、担当医から手術を勧められた。そして、一ヶ月後の日取りを告げられた。予防接種でさえ嫌がる母にとって、覚悟していたとはいえ、そのショックはやはり相当なものだったろう。
「がんばろうで。お母ちゃん」家族の声援も親戚の励ましも、この時の母にはすべての言葉が空虚に聞こえていたに違いない。
お洒落大好きな母の目を引いた、パステルカラーのシンデレラのようなハイヒールのパンプスも、母の購買欲はそそらなかった。いつもであれば飛びつくような靴なのに、母は静かに一暼しただけで、手に取ろうとはしなかったのだ。
「これから靴を履いて歩くことはないけん」
「絶対履いて出かけようよ」
お互いに交わす、辛い押し問答が何日も繰り返された。
手術の朝、不安だらけの母を手術室に見送り、病室で家族と過ごした十三時間は、ただ果てしなく長かった。
全身麻酔でぐったりした術後の母が運ばれてきたのは、すでに病室の消灯直前だった。身体にもつれるほどたくさんの点滴のチューブが、棘のように身体中に刺さっていた。そのような状態で、母は両の掌を天井に向かって上げてグゥパァとしていた。この、母の、大丈夫だよという精一杯のサインを目にした私たちは、恐ろしく長い不安な待ち時間が、一瞬にして安ど感に変わっていったのだった。少しずつ麻酔から覚めた母は私たち家族を認識して、口元にうっすら笑みを浮かべていた。
「お母ちゃん、痛いことないん?」切羽詰まった声で尋ねる私に、母は小さく頷いた。翌日からは、持ち前のパワーで先生も驚くほどの快復力を母は見せていった。人間の可能性はどのような状況でも残っているのだ。これに頼るしかないのだとしみじみ思った。
手術から一ヶ月後の受診日、九十九パーセントの確率で通常の生活が可能であるとの診断がめでたく下った母は、病気という檻から見事解き放たれた。外出して友達と出会い、積極的に親戚一家と食事を楽しむなどして、自分の身体と真摯に向かい合っている。それは外の世界に身を置くことで、ゆっくりと鋭気を満たしているようにも思われた。私たち家族のなかだけの存在から、外に眼を向ける余裕が出てきた嬉しい証だった。食べること、飲むこと、話すことといった生への欲求が充満している様子が、徐々に実感できたのだ。
ふいに母が、「新しい靴を買いに行こうかな」と私に向かって笑いかけていた。
私は、大きく頷いた。