明るき世界へ
小川未明
一 小さな芽
小さな木の芽が土を破って、やっと二、三寸ばかりの丈に伸びました。木の芽は、はじめて広い野原を見渡しました。大空を飛ぶ雲の影をながめました。そして、小鳥の鳴き声を聞いたのであります。(ああ、これが世の中というものであるか。)と考えました。
どれほど、この世の中へ出ることを願ったであろう。あの堅い土の下にくぐっている時分には、同じような種子はいくつもあった。そして、暗い土の中で、みんなはいろいろのことを語り合ったものだ。
「早く、明るい世の中へ出たいのだが、みんながいっしょに出られるだろうか。」と、一つの種子がいうと、
「それはむずかしいことだ。だれが出るかしれないけれど、あとは腐ってしまうだろう。しかし出たものは、死んだ仲間の分も生きのびてしげって、幾十年も、幾百年も雄々しく太陽の輝く下で華やかに暮らしてもらいたい。もし、二つなり、三つなりが、いっしょに明るい世界へ出ることがあったら、たがいに依り合って力となって暮らしそうじゃないか。」と、他の種子が答えました。
みんなは、その種子のいったことに賛成しました。しかしみんなが明るい世界を慕ったけれど、そのかいがなく、土の上に出ることを得たものは、ただ一つだけでありました。
こうして、一本の木の芽は、この世界に出たが、見るもの、聞くものに心を脅かされたのであります。みんなの希望まで、自分の生命の中に宿して、大空に高く枝を拡げて、幾万となく群がった葉の一つ一つに日光を浴びなければならないと思いましたが、それはまだ遠いことでありました。
最初、この木の芽の生えたのを見つけたものは、空を渡る雲でありました。けれど、ものぐさな無口な雲は、見ぬふりをして、その頭の上を悠々と過ぎてゆきました。
木の芽は、鳥をいちばんおそれていたのです。それは、代々からの神経に伝わっている本能的のおそれのようにも思われました。あのいい音色で歌う鳥は、姿もまた美しいには相違ないけれど、みずみずしい木の芽を見つけると、きっと、それをくちばしでつついて、食い切ってしまうからです。そのくせ、鳥は木が大きくなってしげったあかつきには、かってにその枝に巣を造ったり、また夜になると宿ることなどがありました。そんなことを予覚しているような木の芽は、小鳥に自分の姿を見いだされないように、なるたけ石の蔭や、草の蔭に隠れるようにしていました。
口やかましい、そして、そそっかしい風が、つぎに木の芽を見つけました。
「おお、ほんとうにいい木の芽だ。おまえは、末には大木となる芽ばえなんだ。おまえの枯れた年老った親は、よくこの野原の中で俺たちと相撲を取ったもんだ。なかなか勇敢に闘ったもんだ。この世界は広いけれど、ほんとうに俺たちの相手となるようなものは少ない。はじめから死んでいるも同然な街の建物や、人間などの造った家や、堤防やいっさいのものは、打衝っていっても、ほんとうに死んでいるのだから張り合いがない。そこへいくと、おまえたちや、海などは、生きているのだから、俺が打衝ってゆくと叫びもするし、また、戦いもする。俺は、じっとしていることはきらいだ。なんでも駆けまわっていたり、争ったり組みついたりすることが大好きなのだ。」
木の芽は、まだ地の上に産まれてから、幾日もたたないので、ものを見てもまぶしくてしかたがないほどでありましたから、こう、風におしゃべりをされると、ただ空怖ろしいような、半分ばかり意味がわかって半分は意味がわからないような、どきまぎとした気持ちでいたのであります。
「しかし、おまえは、大木になる芽ばえだとはいうものの、それまでには、おおかみに踏まれたり、きつねに踏まれたりしたときには、折れてしまおう。そうすれば、それまでのことだ。だから体を鍛えなければならない。」と、宇宙の浮浪者である風は、語って聞かせました。
哀れな木の芽は、風のいうことをともかくも感心して聞いていましたが、
「それなら、どうしたら、私は強くなるのですか。」と、木の芽は、風に問いました。
風は、いちだんと悲痛な調子になって、
「それには、俺がおまえを鍛えるよりしかたがない。いまおまえは、まだ小さくて教えても歌えまいが、いんまに大きくなったら俺の教えた『曠野の歌』と、『放浪の歌』とを歌うのだ。」と、風は、木の芽にむかっていいました。
無窮から、無窮へ
ゆくものは、だれだ。
おまえは、その姿を見たか、
魔物か、人間か。
黒い着物をきて
破れた灰色の旗がひるがえる。
風は、歌って聞かせました。そして、強く、強く吹き出しました。木の芽ばかりでなく、野原に生えていた、すべての草や、林が、驚いて騒ぎ出しました。中にも、この小さな木の芽は、柔らかな頭をひたひたとさして、いまにもちぎれそうでありました。
粗野で、そそっかしい風は、いつやむと見えぬまでに吹いて、吹いて吹き募りました。木の芽は、もはや目をまわして、いまにも倒れそうになったのであります。
このとき、太陽は、見るに見かねて、風をしかりました。
「なんで、そんなに小さい木の芽をいじめるのだ。おまえが騒ぎ狂いたいと思ったなら、高い山の頂へでも打衝るがいい、それでなければ、夜になってから、だれもいない海の真ん中で波を相手に戦うがいい。もうこの小さな木の芽をいじめてくれるな。」と、太陽はいいました。
風は、太陽に向かって飛びつきそうに、空へ躍り上がりました。そうして叫びました。
「私は、この小さな木の芽をいじめるのではありません。強く、強く、強くならなければ、どうしてこの曠野の真ん中でこの木の芽が育い立ちましょう。そうするには私が、木の芽を、強くするように鍛えなければならないのです。」
太陽は、あきれたような顔つきをして、しばらくぼんやりと見下ろしていましたが、
「私のいうことを守らんと、おまえを三千里も四千里も遠方へ追いやってしまうぞ。これから、芽が大きくなるまで、おまえはけっして、あんなに烈しく吹いてはならない。」と、太陽は風に命じました。
風は、声低く、「放浪の歌」をうたいながら、海の方をさして去ってしまいました。後で、太陽は哀れな木の芽をじっとながめたのであります。
「もう驚くことはない。おまえを苦しめた風は遠くへ去ってしまった。これから後は、私がおまえを見守ってやろう。」と、太陽はいいました。
木の芽は、生まれて出た世の中が予想をしなかったほど、複雑なのに頭を悩ましました。そして、空恐ろしさに震えていました。
「おまえは寒いのか。なんでそんなに震えているのだ。」と、太陽は、怪しんで聞きました。
木の芽は、風に吹かれて、体がたいへんに疲れてきました。そして、のどがこのうえもなく渇いていたので、ただ雨の降ってくれることを望んでいましたが、しかし、そんなことを口に出していいもされずに、不安におそわれて震えていたのです。
「かわいそうに、おまえは、ものがいえないほど寒いのか。それで、震えているのだろう。もう安心するがいい。風は、あちらへいってしまった。私が、おまえを思いきって暖めてやるから。」と、太陽はいいました。
そして、太陽は、急に熱と光をましました。その熱は雲を散じてしまいました。そして、やっと地の上に伸びたばかりの木の芽は、小さな葉がしぼんで、細い幹は乾いて、ついに枯れてしまいました。
太陽は、そのことには気づかずに、日暮れ方まで下界を照らしていました。