生きぬく力
小川未明
「孝二、おまえでないか。」
「僕、そんなところへさわりませんよ。」
玉石の頭から、すべり落ちた青竹を、口をゆがめながらもとへ直して、おじいさんは、四つ目垣の前に立っていました。いたずら子がきて、抜こうとするのだと思ったのです。竹馬にするには、ちょうど手ごろの竹だからでした。しかし、この辺の子供には、そんな悪い子がないと考えると、植木屋の締め方が足りなかったのかと、しゅろなわの結び目をしらべてみたが、そうでもなさそうでした。
平常から、若いものが戦争にいって死ぬのに、自分は、長く生きすぎたと思っているおじいさんは、
「これで、七、八年は持ちましょう。」と、植木屋が造りながらいったのを聞いたとき、そのころには、孝二は、中学を卒業するであろうし、自分は、生きているかどうか、わからないと思ったのでした。
「孝二、見つけたら、しかってくれ。」
おじいさんは、垣根のきわに植わっている、まだつぼみの堅いじんちょうげの葉についたどろを洗ってやりました。若いうちは、なんでもぞんざいに取り扱ったのが、年をとると、どれにも自分と同じような生命があるように思えて、いたわる心が生ずるのでした。
黒いマントを頭からかぶって、がたがたの自転車に乗った少年が走ってきました。折れたハンドルを、針金やひもで結び合わせて、巧みにあやつりながら、足には破れたくつをはいていました。息をきらしながら犬がついてきます。門のところで、自転車を降りると、前側の板べいへ寄せかけて、ポケットから、焼き芋を出して、自分は食わずに、それを犬にやりました。犬は、一口に食べると、少年の顔を見上げて尾を振っていました。少年は、マントの下に肩からかけた、新聞の束から、一枚引き抜くと、門を開けて入り口へまわらずに、竹の垣根の方へ近づきました。
ちょうど、空をこうしの内からながめていた孝二は、いつも新聞をここへ入れていくのは、この子が配達するのかと思って見ていました。しかし、子供の手は、垣根の外から伸ばしても窓の内へはとどかなかったのです。少年は、窓の際に、自分ぐらいの子供の立っているのに気づきました。
「はだしになって、上がってもいい。」と、どろのついたくつをぬいで、くつ下の穴から冷たそうに指の出ている足を垣根にかけました。
「ああ、いいよ。」と、孝二は、やさしく答えたのです。そして、新聞を受け取ろうとして、マントに半分隠れた顔をのぞくと、
「ああ、小泉じゃないか。」と、驚きました。
「うん。」と、少年もはじめて気がついたらしく、にやっと笑って、うなずきました。
「ああ、君の家はここか。」ともいわずに、そのままハンドルのよくきかぬ自転車に乗って、いってしまいました。
垣根のゆるむ原因はわかったが、孝二は、おじいさんに、だまっていました。
算数の時間でした。先生は、黒板に問題を出されて、
「これをまちがわずに、いちばん早く答えを出したものに、ほうびをやろう。」と、一本の青色の鉛筆を高く上げて示されました。
「先生、一人だけですか。」
「いや、いちばんおそく出したものにも、名誉のほうびをやろう。」と、先生は、こんどは使用されている鉛筆を高くさし上げられました。
生徒は、がやがやといいはじめた。
「名誉の鉛筆をもらいたくないものだ。」という声がしました。
しばらくの間、教室は、しんとして、真剣な空気がみなぎりました。
「はい、先生できました。」と、ノートを持って、元気よく教壇に進み出たものがあります。それは、孝二でした。
「早いなあ。」
「僕は、まだ二つしかできないぞ。」
そんな、ささやきが聞こえると、答案に見入っていられた先生は、
「よし。」といって、鉛筆を孝二に与えられました。いつも、首席を争う東、小原は、まだ出ませんでした。つづいて出たのは有田です。答えは正しかったけれど、孝二に賞を奪われて、残念そうに見えました。そのうちに、いずれも出つくしました。
「最後はだれだ。」と、見まわすと、
「小泉だ。」と、笑い声が起こりました。彼は、組の中でも、つねにできなかったからです。みんなの笑いに送られて、小泉は、教壇へノートを持っていきました。
「なんだ、みんな違っているではないか。」と、先生が、どなられた。彼は、耳のあたりまで赤くしました。
「おまえには、この鉛筆だ。」と、先生は、短くなった鉛筆を出しかけて、なんと思われたか、
「待て……。」といって、教員室へ駈けていかれたが、やがて、手に新しい、孝二に与えたと同じ鉛筆を握ってきて、小泉に渡されました。
「いいなあ。」
「うまいことをしたなあ。」
ほうぼうからうらやましがるような声が起こった。小泉は、うれしそうに、またすまなさそうに、自分の席へもどったのであります。
運動場へ出るとき、廊下で、だれか、
「小泉の家は、貧乏だから先生がやったんだよ。」と、蔭口をしているのを聞くと、
「先生がやさしいんだ。」と、孝二は腹立たしげに打ち消しました。
せみの声もしたし、運動場には、まだ烈しい日の光が照りつけていました。
「ドッジボールの金をもらうよ。」
校舎の日蔭のところに立って、東が、一人一人から金を受け取っていました。一人が、十銭以上の寄付をすれば、その金で求めたドッジボールの遊戯に加わることができるのでした。
「小泉くん、君持ってきたの。」と、孝二が、そばへ寄って問いました。小泉は頭を振りました。
「じゃ、僕のと二人分にしておくからね。」
孝二は、二十銭出そうと持ってきたのを、小泉と二人の分にして出しました。これで、小泉もこの遊戯に加わることができたのです。