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幾年もたった後

时间: 2022-10-14    进入日语论坛
核心提示:幾年もたった後小川未明 ある輝(かがや)かしい日(ひ)のことです。父親(ちちおや)は、子供(こども)の手(て)を引(ひ)きながら道(
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幾年もたった後

小川未明


 ある(かがや)かしい()のことです。父親(ちちおや)は、子供(こども)()()きながら(みち)(ある)いていました。
 まだ昨日(きのう)()った(あめ)(みず)が、ところどころ()のくぼみにたまっていました。その(みず)(おもて)にも、()(ひかり)(うつく)しく()らして(かがや)いていました。
 子供(こども)は、その(みず)たまりをのぞき()むように、その(まえ)にくると(あゆ)みを()めてたたずみました。
(ぼう)や、そこは(みず)たまりだよ。(はい)ると(あし)(よご)れるから、こっちを(ある)くのだよ。」と、父親(ちちおや)はいいました。
 子供(こども)は、そんなことは(みみ)にはいらないように、(わら)って足先(あしさき)で、(みず)(おもて)()もうとしていました。
(あし)(よご)れるよ。」と、父親(ちちおや)無理(むり)に、やわらかな(しろ)子供(こども)(うで)()()りました。すると、子供(こども)は、やっと父親(ちちおや)のあとについてきましたが、また、二足三足(ふたあしみあし)(ある)くと、また()()まって、こんどは(あたま)(うえ)()()がった()(えだ)をながめて(わら)っていました。
 その()は、なんの()()らなかったけれど、緑色(みどりいろ)()がしげっていました。そして、その緑色(みどりいろ)()の一つ一つは、青玉(あおだま)のように(うつく)しく()(かがや)いていました。
 父親(ちちおや)子供(こども)がうれしそうに、()()(うご)くのをながめて(わら)っているようすを()るにつけ、また(みず)たまりをおもしろそうにのぞき()んだようすを(おも)()すにつけ、この()(なか)が、どんなに子供(こども)()には(うつく)しく()えるのだろうかと(かんが)えずにはいられませんでした。
 父親(ちちおや)は、子供(こども)()()いて、ゆるゆると(みち)(うえ)(ある)いていきました。そして、父親(ちちおや)は、自分(じぶん)も、こんなように子供(こども)時分(じぶん)があったのだということを、ふと(こころ)(うち)(おも)()したのであります。
「やはり自分(じぶん)もこんなように、(ある)いたのであろう。やはり自分(じぶん)()にも、こんなように、(うつ)ったものはなんでも(うつく)しく()えたことがあったのであろう。」と、父親(ちちおや)(おも)ったのでありました。
 しかし、もう、いまとなっては、そんな(むかし)のことをすっかり(わす)れてしまいました。これは、ひとり、この父親(ちちおや)ばかりにかぎったことではないでありましょう。みんな人間(にんげん)というものは一()経験(けいけん)したことも(とし)をたつにつれて、だんだんと(わす)れてしまうものです。そして、もう一度(いちど)それを()りたいと(おも)っても(おも)()すことができないのであります。
「ああ、どんな気持(きも)ちだろうか? もう一()自分(じぶん)もあんな子供(こども)時分(じぶん)になってみたい。」と、父親(ちちおや)はしみじみと(おも)いました。
 この父親(ちちおや)は、やさしい、いい(ひと)でありました。無邪気(むじゃき)な、()(なか)のいろいろなことはなにも()らない、ただ、なにもかもが(うつく)しく、そして、みんな(わら)っているようにしか()えない子供(こども)心持(こころも)ちを、ほんとうに(あわ)れに(かん)じていました。それでありますから、できるだけ、子供(こども)にやさしく、そして、しんせつにしてやろうと(おも)いました。
 子供(こども)は、二足(ふたあし)三足(みあし)(ある)くと(あし)もとの小石(こいし)(ひろ)って、それを(めずら)しそうに、ながめていました。(とり)()(さが)していると()()まって、
「とっと、とっと。」といって、ぼんやりとながめていました。
 また小犬(こいぬ)(あそ)んでいると、子供(こども)()()まって、じっとそれをば見守(みまも)りました。
「わんわんや、わんわんや。」と、かわいらしい、ほんとうに(こころ)からやさしい(こえ)()して、(ちい)さな()()して(まね)くのでした。
 子供(こども)にとって、()()も、(くさ)も、小石(こいし)も、(とり)も、小犬(こいぬ)もみんな(とも)だちであったのです。その父親(ちちおや)は、手間(てま)がとれても、子供(こども)()()くままにまかせて、ぼんやり()()まって、それを見守(みまも)っていることもありました。
「なぜ、人間(にんげん)は、いつまでもこの子供(こども)(こころ)(うしな)わずにいられないものだろうか。なぜ(とし)()るにつれて、(わる)(かんが)えをもったり、まちがった(かんが)えをいだいたりするようになるものだろうか。ああ、自分(じぶん)も、どうかして、もう一()、なにも()(なか)のことを()らなかった、そして、なんでも(うつく)しく()える子供(こども)時分(じぶん)になりたいものだ。しかし、(なが)れた(みず)が、もう(かえ)ってこないように、なれるものでない。」と、父親(ちちおや)は、(かんが)えながら(ある)いていきました。
 すると、ふいに、(みみ)もとで、
「もう一()、おまえは子供(こども)になれるから、心配(しんぱい)をするな。」といったものがありました。
 父親(ちちおや)は、はっと(おどろ)きました。だれが、それをいったのだろうと、くるくると(あたま)をあたりにまわしてみましたけれど、あたりには、だれも(ある)いているものはなかったのです。また、だれも自分(じぶん)(むね)(うち)(おも)っていることを()()るはずはなかったのでありました。
 不思議(ふしぎ)なことがあるものだと(おも)って、(そら)(あお)ぎますと、太陽(たいよう)(まる)(かお)をして、にこにこと(わら)っていました。
 いま、そういったのは、太陽(たいよう)かと(おも)いましたから、
「ほんとうに、(わたし)はもう一()子供(こども)(かえ)れるでしょうか? (わたし)()(なか)苦労(くろう)をしました。(わたし)(あたま)からは、無邪気(むじゃき)ということがなくなってしまいました。(わたし)はどう(かんが)えましても、()()小石(こいし)や、(いぬ)ころを(とも)だちとする()にはなれません。どうして、この(わたし)が、二()子供(こども)になれるでありましょうか。」と、父親(ちちおや)はいいました。
「もう一()、おまえを子供(こども)にしてやる。」と、太陽(たいよう)はいいました。
 父親(ちちおや)は、それが自分(じぶん)空想(くうそう)でないかしらん。いくら太陽(たいよう)だって、そんなことをいい()るものでなかろう!。それとも、自分(じぶん)()んで、こんどふたたびこの世界(せかい)()まれ()わってきたときをいうのではなかろうかと(おも)いましたから、父親(ちちおや)太陽(たいよう)()かって、
「ほんとうのことでございますか。この()()ぬまでに、もう一()子供(こども)になれるでありましょうか。」とたずねました。
「そうだ、()ぬまでに、もう一()子供(こども)にしてやる。」と、太陽(たいよう)はいいました。
「ああ、うれしい!」と、父親(ちちおや)は、自分(じぶん)子供(こども)()()げていいました。
子供(こども)であることをうれしいとは、子供(こども)(おも)っていない。子供(こども)はまじめなんだ。子供(こども)のいうことをよく()いてやれ! そして、子供(こども)大事(だいじ)にしなければならない。」と、太陽(たいよう)はいいました。このときは、太陽(たいよう)も、まじめになって、いつものようにあいきょうよく(わら)っているようには()えませんでした。
 そのとき、父親(ちちおや)は、まだ(とし)(わか)かったのであります。太陽(たいよう)がいつかいったことを(のち)には(わす)れてしまいました。いったことの意味(いみ)は、(おも)()されても、なんで太陽(たいよう)がものをいうものか。あれは、みんな自分(じぶん)(えが)いた空想(くうそう)()ぎなかったと(おも)ったでありましょう。そして、あのときの子供(こども)は、(おお)きくなりました。子供(こども)があのときの父親(ちちおや)(とし)ごろになったときは、もう子供(こども)には、子供(こども)()まれて、父親(ちちおや)は、(とし)をとってしまいました。
 父親(ちちおや)(まご)ができたわけであります。父親(ちちおや)は、だんだん(とし)をとって、ついにおじいさんになってしまいました。
 このおじいさんは、いいおじいさんで、やさしく(まご)たちをかわいがりました。だから、(まご)たちは、おじいさん、おじいさんといって(なつ)きました。しかしおじいさんは、もう(まご)たちのめんどうを()ることができなくなったほど(とし)をとってしまいました。
 すると、おじいさんは、いつとはなしに、この()(なか)での、うるさかったこと、めんどうだったこと、(こころ)をなやましたこと、また(くる)しかったこと、いろいろなことが(わす)れられてゆきました。
 おじいさんの()は、子供(こども)()のように(うつく)しく()んできました。すると、なんでも、()(うつ)ったものは(うつく)しく()えました。おじいさんは、(みち)ばたに()いている山茶花(さざんか)も、(きく)(はな)も、みんな(こころ)あってなにか物語(ものがた)ろうとしているように()られたのです。おじいさんは、つえを()めて、(こし)()ばして、ぼんやりとそれに()とれていました。
 小鳥(ことり)が、()のこずえにきて()いていると、おじいさんは、また()()まって、その()(ごえ)()きとれていました。
 ある()のこと、おじいさんは、(まご)たちに()()かれて(ある)いていました。
「おじいさん、ここは(みず)たまりですよ。この(いた)(うえ)をトン、トンとお(ある)きなさいよ。」と、(まご)たちに(おそ)わって、おじいさんは、その(みず)たまりを(ある)いていました。
 おじいさんには、なにもかもこの世界(せかい)(うつく)しく、そして、(ひろ)()られたのであります。
 太陽(たいよう)は、大空(おおぞら)から、(した)()ていました。そして、この()(さま)笑顔(えがお)でながめていました。
 (むかし)、あのおじいさんは、自分(じぶん)子供(こども)を、ちょうどあのように()()いて、この(みち)(ある)いたことがあった。いまは、(まご)たちに()()かれて、ああして(ある)いてゆく。
「どうか、もう一()子供(こども)時分(じぶん)になってみたい。」と、あの時分(じぶん)いっていた。そして、そのとき、(おれ)が、「もう一()、おまえを子供(こども)にしてやる。」といったら、たいへんに(よろこ)んだものだ。いまあのように子供(こども)(おな)じである。
 こう、太陽(たいよう)(かんが)えると、(した)(ある)いているおじいさんに()かって、
「三十(ねん)も、四十(ねん)(むかし)に、もう一()子供(こども)になってみたいといったが、いまおまえは、どんなに、(かんが)えている?」と、太陽(たいよう)はたずねました。
 しかし、おじいさんは、()らぬ(かお)で、とぼとぼと(ある)いていました。おじいさんには太陽(たいよう)のいったことが、ちょうど子供(こども)のようにわからなかったのであります。

――一九二二・七作――

 

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