一本のかきの木
小川未明
山にすんでいるからすがありましたが、そのからすは、もうだいぶん年をとってしまいました。若い時分には、やはり、いま、ほかの若いからすのように、元気よく高い嶺の頂を飛んで、目の下に、谷や松林や、また村などをながめて、あるときは、もっと山奥へ、あるときは、荒波の岸を打つ浜の方へと飛んでいき、また、町の方まで飛んでいったことがあります。
どんなに強い風も怖ろしくはありませんでした。身を軽く風に委せて、木の葉のように空へひるがえりながら、おもしろ半分に駆けたこともありました。太陽のまだ上がらない、うす暗いうちから、そして星の光が見える時分、空を、鳴いていったこともあります。
その鳴き声に、眠っている林や、森や、野原が目を醒ましました。中には、「元気のいいからす。」といって、この早起きのからすをほめました。
ほんとうにこのからすは、若い時分は、元気のいい幸福者であったのです。けれど、いまは、からすは、もう年をとってしまいました。そして、だんだんと翼も弱ってくれば、また目もよく見えなくなりました。
それは、山に大雪の降った、ある寒い日のことでありました。この年をとったからすは、ほかの若い者が、村の方や、また、海の方まで出かせぎをしにいったのに、自分は、ひとり木の枝に止まって、つくねんとしていました。ちょうどそのとき、雪のために餌がなくて、ひもじがっているわしが、このからすを見つけました。
からすは、寒さと疲れに、目を半分閉じていますと、ふいに、空のあちらから、異様の響きがきこえたのです。からすは、この音を聞くと、思わずぞっとしました。よく遠方のかすんで見えない目で、じっとその方を見ますと、たしかに、日ごろからおそれているわしが、自分を目がけて飛んでくることがわかりました。
からすは、命のあらんかぎり逃げようと思いました。しかし、海の方へいっても、また、谷の方へいってもだめだ。これは、村か町の方へゆくにかぎると思いました。なんでも人間のいるところへゆけば、わしは引っ返してしまうだろうと思ったからです。
からすは、里の方をさして、いっしょうけんめいに飛びました。雪まじりの寒い風は、はげしく吹きつけました。翼は破れてしまいました。そして、怖ろしい、大きな羽音は、だんだん迫ってくるような気がいたしました。からすは、もはや、命が助からないものと思いました。しかし、このとき、はるかあちらに、人家のところどころにある村が見えたのです。からすは、悲しそうな声で鳴いて、救いを求めながら村の森へ下りてきました。
わしは、人家を見ると、急に、からすを追うことをあきらめて、山の方へ引きかえしてしまいました。からすは、ようようのことで、命は助かりましたけれど、翼は傷ついて、体は、うえと寒さのために、綿のように疲れて、木の枝にしっかり止まっているだけの気力もなくなってしまいました。気がゆるんで、そのままばたりと、からすは、下の真っ白な雪の上に転がり落ちてしまったのです。
この村の少年が、ちょうど、そのとき、森へ枯れた枝を拾いにきました。そしてこのからすを見つけました。
「かわいそうに、羽がたいへんに傷んでいる。なにかに追われて逃げてきたのか、それとも、病気なのだろう。」と、少年は、からすのそばに寄ってきて、羽をなでながらいいました。少年は家に引きかえして、まだつきたての柔らかいもちを持ってきて、小さく幾つにもちぎって、それをからすに与えました。
からすは、それを食べると元気づきました。そして、少年が枯れ枝を集めて家へ帰る時分には、もう、からすはどこかへ飛び去ってしまった後でありました。
からすは、少年の恩に深く感じました。その冬も無事に過ぎて、あくる年になりますと、ある日、少年は庭でからすがしきりに鳴くのを聞きました。見ると二羽のからすが木の枝に止まって、一羽のからすが地になにか埋めていたのでした。その日も過ぎて、幾日かたつうちに、雨が降って日の光がそこを暖かに照らしますと、一本のくるみの木が芽を出しました。そして、日にまし大きくなりました。少年は、その木を大事にしました。秋のころには、一尺ばかりになりました。それだのに、冬になって雪が降ると、その木は根もとから折れてしまいました。
少年は、たいそう悲しみました。すると、また、ある日のこと、庭でからすがしきりに鳴いていました。見るといつかのように、二羽のからすが、木の上に止まって、一羽のからすが、またなにやら地に埋めているのです。
今度は、そこからかきの木が芽を出しました。少年は、地にかきの種子をまいたのは、いつかの哀れなからすであった、木の枝に止まっていた一羽のからすが、あのからすと友だちか、さもなければ子供たちであろうと思いました。少年は、このかきの木をいたわりました。冬になると棒を立てて倒れないようにしてやりました。二、三年のうちには、そのかきの木も、だんだん目だって大きくなりました。
いつしか、少年は年をとって大人になりました。この人は、大きくなっても、やはりあわれみの深い、しんせつな人でありましたから、村の人々からも慕われました。そして、この人にもかわいらしい子供が産まれました。
その時分には、かきの木も、太く大きくなっていました。
そして毎年、たくさんの実を結びました。
「このかきの木は、からすが植えてくれたのだ。」と、昔の少年で、いまのお父さんは、子供らに向かって話しました。
「どうして、からすが植えたの?」といって、子供らは問いました。
昔の少年であった、いまのお父さんは、昔のことを、くわしく子供らに話して聞かせたのです。
そして、
「そのからすは、もうとっくに死んでしまったのだよ。」といわれました。
秋になると、かきの木の実がたくさんになります。村の子供らがみんな集まってきて、そのかきをもいで食べました。
そして、あとは木に残しておくと、あの哀れなからすの子供らや、孫たちが、山からやってきて、木に止まって食べたのでありました。