ワン公は、遠方まで用たしにやられました。帰る途中で、空の模様が変わって、雷が鳴り、ひどい夕立となりました。彼は、小さな御堂のひさしの下にはいって、すくんでいたのであります。けれど、雨は、容易にやみそうもなく、青い電の光は、身のまわりを縫うようにひらめき、すぐ頭の上では、いまにも落ちそうに雷が鳴ったのです。彼は、めったに、こんな怖ろしいめにあったことはなかったのでした。
「ワン公、どうだ。主人ににらまれるのと、どっちがこわい?」と、暗い、御堂の内から、声がしたような気がしました。
彼は、じっと自分をにらむ、意地悪そうな主人の目を思いうかべました。また、自分を犬の歩きつきに似ている、といってあざ笑う近所の子供たちの顔を目に描きました。すると、この自然の怖ろしさは、さすがに公平であるというような気がしたのです。なぜなら、自分ひとりが怖ろしいのでない。しかし、主人の目は、ひとり、自分にばかり注がれているように考えられたからです。彼は、公平な神さまに向かって訴えたなら、あるいは、自分の願いを聞いてくだされないことはないという気がした。
「神さま、どうぞ、私をお助けくださいまし。」と、彼は、答えるかわりに、暗い、御堂の内に向かって手を合わせて拝んだのです。
いつしか、雨は、小降りとなり、雷はだんだん遠くへ去ってゆきました。
野中を流れている小川には、水がいっぱいあふれて橋の上を越えていましたから、どこが道だかわかりませんでした。このとき、どこからか、青々とした、田の上を飛んで、すがすがしい空気に、羽音をたてる一羽の黒い水鳥があったかと思うと、小川の淵に下りました。それは、くちばしの黄色い鷭だったのです。
鷭は、首を傾けて考えていましたが、やがて、流れをまっすぐにあちらへ横切ってゆきました。流れには、さんらんとして、さざなみが雨の晴れた夕空の下に生じました。
西に沈みかけていた、真っ赤な太陽は、
「おお、元気だな。」と、鷭に声をかけました。
「やさしい、酒屋の小僧さんが、途方にくれていますから、水先案内をしてやります。」と、鷭は、かわいらしい目を上げて太陽を見ました。
その夜、ワン公は、着物をぬらして帰ったといって、酒屋のおかみさんにしかられていたのです。
「こんなに、着物をぬらすなんて、おまえ、ぼんやりだからだよ。」
彼は、どんな場合にでも、自分に、同情してくれるものがないのを悲しく感じました。
白壁の蔭にたって、ワン公は、芋の葉の上に止まった露を見て、空想にふけったのです。
「自分はあの露だったら、なんの悲しいこともないだろう。お月さまが、おまえはもうすこし世の中におれといわれたら、ああして、私は芋の葉の上にころがっている。そしてまた、おまえはもう天国へきてもいいとお招きになったら、喜んでお月さまのところへゆく。そこには自分がまだ顔を知らない、お母さんもお父さんも、みんな露になって光っていなさるだろう……。」
彼は、月を見上げて、
「お月さま、私は、正直に働いていますけれど、だれも私をかわいそうと思ってくれるものがありません……。」と、訴えたのであります。
このとき、ふいに、目の前へ美しい、やさしそうな女があらわれました。少年は、びっくりしました。よく、月の明かりでその顔を見ると、どこか見覚えのあるような気がしました。
「わたしが、いいところへつれていってあげます。この世の中には、もっと正しいことも、幸福なこともたくさんあるのですよ。わたしは、町や、村や、方々を歩いてきました。そして、どこにしんせつな、よく道理のわかる人間が住んでいるかということも知っています。わたしは、今日から、あなたのお母さんになって世話をしてあげますから……さあ、まいりましょう。」
考えると、いつか犬にかまれた三味線弾きの女でした。酒屋のワン公は、この人につれられて遠くいってしまいました。