三月の空の下
小川未明
花の咲く前には、とかく、寒かったり、暖かかったりして天候の定まらぬものです。
その日も暮れ方まで穏やかだったのが夜に入ると、急に風が出はじめました。
ちょうど、悪寒に襲われた患者のように、常磐木は、その黒い姿を暗の中で、しきりに身震いしていました。
A院長は、居間で、これから一杯やろうと思っていたのです。そこへはばかるような小さい跫音がして、取り次ぎの女中兼看護婦が入ってきて、
「患者がみえましたが。」と、告げました。
「だれだ? 初診のものか。」と、院長は、目を光らしました。
「はい、はじめての方で、よほどお悪いようなのでございます。」
まだ年の若い彼女は、こんなものを院長に取り次いだのは悪いとは思ったけれど、それよりも、目にうつる哀れな男の姿のほうが、いっそう強く心を動かしたのです。けれど、院長は容易に座を立ち上がろうとしなかった。
「そんなに悪いのに、ここへやってきたのか。」
「はい。」
院長は、きたときいては、捨ててもおけなかったのでした。どんな身分の患者であって、またどこが悪いのか、それを知りたいという職業意識も起こって、
「いま、ゆくから。」と、静かに、答えて、苦い顔つきをしながら、居間を出ました。
控え室をのぞくと、乞食かと思われたようなよぼよぼの老人が、ふろしき包みをわきに置いてうずくまっていました。
院長は、その老人と、取り次いだ看護婦とを鋭く一瞥してからいかにも、こんなものを……ばかなやつだといわぬばかりに、
「みてもらいたいというのは、この方かね。」と、ききました。
「さよう、私でございます。遠いところ、やっと歩いてまいりました。」と、老人はとぎれとぎれに答えました。
「遠いところ? なんで、もっと近所の医者にかからなかったんだね。」
「だめです、いいお医者さんがありません。」と、老人は頭を左右に揺すりました。
(そうだろうとも、だれが、こんなものを見てやるものだ。このばかな女でもなければ、一目見て追い帰すにちがいない。いったい、医者というものをなんと心得ているのだろう。)
「おじいさん、せっかくだが、私は、これから急病人の迎えを受けているので、出かけなければならないのだ。だからすぐみてあげることができない。どうか、よそへいってもらいたい。」
院長は、そばに、まごまごしている、看護婦の顔をにらんで、奥へさっさとはいってしまいました。
「じゃ、どうしてもみてくださらんのか。」と、老人は、つぶやきました。
「お気の毒ですけれど、先生はたいへんお忙しいので、みられんとおっしゃいますから、よそのお医者さまへいってくださいまし。」と、看護婦は、そういいました。
「ははあ、よそのものはみても、私をばみられないとおっしゃるのだな。どうせ、この老耄はくたばるのだからいいけれど、そうした道理というものはないはずじゃ。もう私は歩けないが、どこか近所に、お医者さまはありますかい。」と、老人は、やっと小さな荷物をせおってから、ききました。
「じき、すこしゆくとにぎやかな町になります。そこには、幾軒もお医者さまがあります。」
少女は、暗い外の方を指して、町へ出る方向をおじいさんに教えました。ところどころに点いている街燈の光が見えるだけで、あとは風の音が聞こえるばかりでした。
ちょうど、その時分、B医師は、暗い路を考えながら下を向いて歩いてきました。彼は、いま往診した、哀れな子供のことについて、さまざまのことを思っていたのです。
その家は貧しくて、かぜから肺炎を併発したのに手当ても十分することができなかった。小さな火鉢にわずかばかりの炭をたいたのでは、湯気を立てることすら不十分で、もとより室を暖めるだけの力はなかった。しかし、炭をたくさん買うだけの資力のないものはどうしたらいいか、それよりしかたはないのだ。近所に、宏荘な住宅はそびえている。それらの内部には、独立した子供部屋があり、またどの室にも暖房装置は行き届いているであろう。そこに生まれ育った子供と、あの貧しい家に病んでねている子供とどこに、かわいらしい子供ということに変わりがあろうか。しかし、その境遇はこうも異なっているのだ。私は、あの哀れな子供を助けなければならない。