B医師は、夕方、自分を呼びにきた、子供の母親の、おどおどした目つきと、心配そうな青ざめた顔とを思いあわせたのです。
「あんなになるまで、医者にかけないという法はないのだが、もう手後れであるかもしれない。」
悲壮な気持ちで、門を入ろうとすると、内部からがやがや人声がきこえました。
一足前、近所の人たちが、倒れている老人を連れてきたのです。
B医師は、すぐに老人に注射を打ちました。
「気がついた。おじいさん泣かんでいい。ここは医者の家だから、安心するがいい。」と、顔をつけるようにして、B医師は、燈火の消えかかろうとするような老人をなぐさめました。
「あんたは、お医者さまか。」と、老人は、かすかに目を開いてB医師を見て、たずねました。
「そうです、だから、安心なさるがいい。」と、答えてB医師は、自ら老人を抱えて、診察室のベッドの上に横たえて、やわらかなふとんをかけてやりました。
「先生、この人は、助かりましょうか。」と、老人をつれてきた近所の人たちが、ききました。
「わかりません。なにしろ極度に疲れていますから。私は、できるだけの手当てをいたしますが……。」と、B医師は答えました。
その夜、老人は、最後にしんせつな介抱を受けながら死んでゆきました。すこしばかり前、かたわらにあった小さな荷物を指しながら、訴えるように、うなずいて見せたのでした。
夜明け方になって、ついに雨となったのであります。B医師は、老人が身から離さなかった荷物を開けてみました。紙箱の中には、すでに芽を出しかけた、いくつかのすいせんの球根がはいっていました。また、古びた貯金帳といっしょに、なにか書いたものがほかから出てきました。それを見ると、
「私は、親もなければ、兄弟もない一人ぽっちで暮らしてきた。私の一生は、けっして楽なものではなかった。人のやさしみというものをしみじみと味わわなかった私は、せめて死の際だけなりと、医者にかかってしんせつにしてもらいたいと思って、苦しい中から、これだけの貯金をしたのである。どこで私は死ぬかしれないが、おそらく、しんせつな医者を探しあてて、その人の手にかかって死にたいと思っている。この金で死後の始末をしてもらい、残りは、どうか自分と同じような、不幸な孤独な人のために費ってもらいたい。」
こういうようなことが書いてありました。終生独身で過ごした、B医師はバラック式であったが、有志の助力によって、慈善病院を建てたのは、それから以後のことであります。もちろん、老人の志も無とならなかったばかりか、B医師は、老人の好きだったらしいすいせんを病院の庭に植えたのでありました。
しかし、A病院は、いまも繁栄しているけれど、慈善病院は、B医師の死後、これを継ぐ人がなかったために滅びてしまいました。その建物も、いつしか取り払われて、跡は空き地となってしまったけれど、毎年三月になると、すいせんの根だけは残っていて、青空の下に、黄色い炎の燃えるような花を開きました。そして、この人の心臓に染まるような花の香気は、またなんともいえぬ悲しみを含んでいるのです。