塩を載せた船
小川未明
赤ん坊をおぶった、男の乞食が町へはいってきました。その男は、まだそんなに年をとったというほどではありませんでした。
男の乞食は、りっぱな構えをした家の前へきますと、立ち止まって、考え込みました。それから、おそるおそる門の中へ入ってゆきました。
「どうか、なにかやってくださいまし。」と、声をふるわせて頼みました。
しかし、家の中では、その小さい声が聞こえなかったものか、返事がありませんでした。
乞食は、つぎには、もっと大きな声を出していいました。
「なにか、この哀れな子供にやってくださいまし。」といいました。すると、家の中から、声ばかりで、だれも、顔を出さずに、
「なにも、やるようなものはない!」と、しかるように答えました。
その日は、どういうものか、乞食は、何家へいきましても、同じようなことをいって断られました。
「こんなに、りっぱな、大きな家に住んでいながら、くれるようなものがないとは、不思議なことだ。」と、乞食は、つくづく思わずにはいられませんでした。
脊中におぶさっている赤ん坊が、腹が減ったので泣き出しました。乞食は、どうしたらいいか、ほんとうに困ってしまいました。
太陽は、やがて西に傾きかかっています。その日の光をながめて、ぼんやりと思案にふけっていますと、太陽は、にこやかな円い顔をして、
「いつまでも、こんな人情のない町にいたのではしかたがない。早く、日の暮れないうちに、ほかの町へいったほうがいい。」と、諭しているように思われました。
男の乞食は、自分たちに、不人情であった町をうらめしそうに、幾たびも見かえりながら、疲れた足をひきずって、とぼとぼと、また遠い道を歩いて、ほかの町をさしていったのであります。
それから三日ばかりたちました。ある町をあるきまわっていますときに、乞食は、三日ばかり前に自分がたってきた町が、すっかり海嘯のためにさらわれてしまった、というようなうわさを聞きました。
乞食は、夢のような気がしました。そして、あの町はどうなったろうと、りっぱな構えをした、いろいろな形をしていた家などを、目に思い浮かべたのであります。
「人間というものは、不幸にあわなければ、人情というものを悟るものでない。」と、彼は、いつか聞いた言葉を思い出しました。
「そうだ。あの不しんせつであった町の人々も、きっと思いあたったろう。いまごろはどんなにやさしい人たちになっているかしれない。きっと、手がなくて弱っているものもあろう。自分のようなものにも、される仕事がないとはかぎらない。どれ、ひとつ、その変わった町へもどってみようか。」と思いました。
そして、彼は、いつも、自分の胸に思ったことは、はたしていいかどうであるかたずねてみるように、太陽を仰いだのであります。
太陽は、あいかわらず、にこにことしていました。
「おまえが、そう思うならいってみるがいい。」といっているようでありました。
乞食は、赤ん坊をおぶって、いつかたった町へもどってゆきました。海辺には、白い、海鳥が空を舞っていました。日の光は、彼のゆく道を暖かに照らしていました。
まだ、日がまったく沈みきらないうちに、乞食は、その町のあったところに着きました。きてみると、びっくりしました。一軒として満足な家が建っていないばかりか、たいていは、波にさらわれてしまったとみえて、一面荒れ果てた野原に変わっていたのです。
人たちは、どうなったものか、影さえ見えませんでした。ただ、ところどころに木立がそびえていて、その枝に、髪の毛のからんだようにいろいろなものが引っかかっている、ものすごい、みすぼらしい有り様が見られるばかりでした。
「まあ、こんなになってしまったのか?」と、彼は、その荒れ果てた野原の中に立って、足もとに散らばった材木や、ものの壊れたのや、大きな家が建っていた跡らしい、礎などを見まわしながら、いろいろの思いにふけったのです。
彼は、あまりのはげしい変わり方と、あわただしいできごとのために、なにを思うともなく、しばらくは、ただぼんやりとしていました。
そのうちに、青ざめた月が空に上りました。そして、この荒れはてた景色と、ぼんやりと考え込んでいる哀れな乞食とを照らしたのです。