チンギス・ハンを漢字で書くと「成吉思汗」。この名前にも秘密が隠されているといいます。文治2年(1186年)、頼朝との仲が決裂し、逃避行を開始した義経は、南大和の吉野山で再起を誓って愛妾の静と別れます。静は帰京の道中に捕えられ、鎌倉に送られました。頼朝と政子が鶴岡八幡宮に参詣したとき、静を召して社前でその舞いを鑑賞することになりました。
このときの静の歌が、「吉野山嶺の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」「しづやしづしづのをだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな」というものです。行方の知れない恋人義経を恋い慕う歌でした。
そして、「成吉思汗」の名前が、この静の歌に対する返歌だといいます。この名前を和風に読むと「吉成りて汗を思う」となります。「吉」は義経と静が別れた場所、吉野山、「汗」は水干で、白拍子だった静の衣装。つまり、「吉野山での誓いが成就した今、私は静を思っている」と。また、「成吉思汗」は「なすよしもがな」とも読めます。さらには、モンゴル語では「ジ」「ギ」「ゲ」の発音ははっきり区別できないため、源義経を「ゲンギケイ」と読めば、「ジンギスカン」と似ていなくもありません。
このほかにも、証拠とされるものが数多くあるとされます。
①チンギス・ハンは即位の式で9本の白旗を掲げ、生涯白色と数字の九を好んだ。白は源氏の白旗、九は義経の通称「九郎」に通じる。
②チンギス・ハンは源氏の紋章と同じ「笹りんどう」を紋章としていた。
③チンギス・ハンは家来たちから「タイシャア(大将)」と呼ばれ、その子どもは「オゴタイ(御子様)」と呼ばれていた。
④チンギス・ハンの重要な家来に「サイダ」という者がいた。これは西塔に通じ、西塔となれば弁慶である。また「イサ」という家来は伊勢三郎、「シュウビ」は鷲尾三郎に違いない。
⑤モンゴル人はチンギス・ハンを「イチン・チンギス」と呼ぶ。イチンは「源」の中国読みと同じ。
⑥チンギス・ハンは相撲や巻狩りなど、日本の武芸に似たものを好んだ。また、二人の戦い方には類似点が多く、軍事専門家によると同一人でなければできないような戦術を用いている。
⑦ロシアの極東には「ハンガン」という地名がある。これは判官にちなむものだ。