「こんにちいうところの東北地方(陸奥と出羽)は、日本海地方の多くは古くから農業地帯になっていたが、内陸や太平洋岸には、縄文以来の狩猟・採集のくらしをする人々が多かった。大和朝廷はこれを不安とし、ひたすら農業と定住を勧めたが、これを不快とする反乱がたえまなく、とくに桓武天皇のときに多発した。その鎮撫の総帥として宮廷武官の坂上田村麻呂がえらばれた」
桓武天皇は、8世紀以降、蝦夷開拓を積極的に推し進め、多賀城などの軍事拠点を造営し、次第に北への支配地域を拡大していきました。そして、蝦夷最大の拠点だった胆沢(いさわ)(岩手県水沢市)を攻略するため遠征軍を派遣したものの、思わぬ反撃にあい、以後、3次にわたる大遠征を余儀なくされたのです。
第1次の遠征は789年、紀古佐美(きのこさみ)を征夷将軍とする5万2800余人の軍が派遣されました。対する蝦夷軍は、族長アテルイが率いる千数百人。圧倒的に劣勢のはずの蝦夷軍が、神出鬼没の戦術によって朝廷軍を撃破します。
第2次の遠征はその5年後に派遣され、朝廷は10万の兵を投入しました。坂上田村麻呂はこのとき副将軍として参加していました。しかし、その大軍をもってしても蝦夷の抵抗を打ち崩すことができませんでした。
そうして801年、第3次遠征では、田村麻呂が征夷大将軍となって4万の兵を率います。そして、ようやく蝦夷を平定し、アテルイを降伏させたのです。そして、新たな拠点となる胆沢城を築きました。
降伏したアテルイは京に連行されましたが、田村麻呂は朝廷にかけあい、彼に官位をあたえ蝦夷支配の責任者に任じてもらうつもりでした。しかし、田村麻呂の意見は受け容れられず、朝廷はアテルイを処刑します。和睦に応じたアテルイをだまし討ちにしたのでした。