皇帝(玄宗)は彼の死を悼み、尚衣奉御(しょういほうぎょ)を追贈しました。墓に刻まれた文言からは、立派に成長した彼の姿が偲ばれます。望郷の思いを果たせなかった彼の無念はいかばかりでありましょうか。また、帰国を待ちわびていた家族の哀しみはどれほどのものであったか。あらためて彼の冥福を祈りつつ、墓誌の訳文をご紹介します。
――公は姓は井(せい)、通称は真成(しんせい)。国号は日本で、才能は生まれながらにすぐれていた。そのため命を受けて遠国へ派遣され、中国に馬を走らせやって来た。中国の礼儀教養を身につけ、中国の風俗に同化した。正装して朝廷に立ったなら、並ぶものはなかったに違いない。だから誰が予想しただろう、勉学に励み、まだそれを成し遂げないうちに突然死ぬとは。開元二十二年(734年)正月●日に、彼は官舎で亡くなった。三十六歳だった。
皇帝はこれを傷み、しきたりに則り栄誉をたたえ、詔勅によって尚衣奉御の官職を贈り、葬儀は官でとり行わせた。その年の二月四日に万年県の原に葬った。夜明けに柩を乗せた車を引いてゆき、葬列は赤いのぼりを立てて哀悼の意を示した。真成は、遠い国にいることを嘆きながら、夕暮れに倒れ、人気(ひとけ)のない郊外の墓で悲しんでいる。
彼は言う。「死ぬことは天の常道だが、哀しむべきは遠方であることだ。身体はすでに異国に埋められたが、魂は故郷に帰ることを希(こいねが)う」