藤原鎌足 (ふじわらの かまたり)
※ 中臣鎌足(なかとみの かまたり)ともいう。
● 活やくした時代 614年~669年 飛鳥(あすか)時代
● 活やくしたこと
614年 中臣御食子(なかとみの みけこ)の長男として生まれる。
622年 聖徳太子(しょうとくたいし)がなくなる。
626年 蘇我馬子(そがの うまこ)がなくなる。
蘇我馬子の子の蘇我蝦夷(そがの えみし)と孫の蘇我入鹿(そがの いるか)が権力をにぎり、自分勝手な政治をする。
644年 けまりの会を通して、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に近づく。
けまりをけっているときに、中大兄皇子のくつがぬげ落ちてしまったのを、中臣鎌足がひろって、差し出す。
645年 大化の改新がおこる。
朝鮮からの使節をむかえる儀式の最中に、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
とともに蘇我入鹿(そがのいるか)を殺す。
蘇我蝦夷(そがのえみし)はやしきに火をつけ、自害する。
蘇我氏(そがし)がほろぶ。
孝徳天皇(こうとくてんのう)が天皇になる。
中大兄皇子は皇太子(こうたいし)(天皇の位に次につく皇子)となる。
改心の詔(かいしんのみことのり)を出す。
①人民と土地はすべて天皇のものである。(公地公民)
②全国を国に分け、国司(こくし)をおく。(中央集権)
③租・庸・調(そ・よう・ちょう)の税を実行する。
652年 班田収授の法(はんでんしゅうじゅのほう)が実行される。
人々に口分田(くぶんでん)を与え、死ぬと国に返させる法律
655年 斉明天皇(さいめいてんのう)が再び天皇になる。
(皇極天皇と斉明天皇は同じ人物)
660年 朝鮮の新羅(しらぎ)が百済(くだら)に攻めこむ。
朝鮮の百済(くだら)が救助を求めてくる。
661年 百済を助けるため、斉明天皇が九州に向かう。
663年 白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)で日本軍はやぶれる。
百済がほろぶ。
667年 都を大津(おおつ 滋賀県)にうつす。(大津宮 おおつのみや)
668年 中大兄皇子が天智天皇(てんじてんのう)になる。
669年 中臣鎌足は重病になる。
天智天皇から「大織冠(だいしょくかん)」(当時、最高の官位)が贈られる。
「藤原(ふじわら)」の姓が贈られる。「藤原鎌足(ふじわらの かまたり)となる。
死 去(56才)
● 人 物 評
このように見てくると、藤原鎌足(ふじわらの かまたり)と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、表裏一体(ひょうりいったい)であるといえる。表を担当する中大兄皇子と裏(うら)を担当する藤原鎌足とで分担をしていたようである。「改新の詔(かいしんのみことのり)」も2人によって考え出されたものであろう。中大兄皇子は、藤原鎌足を大変、信頼していたようである。そのしょうこに、それまで裏方(うらかた)として目立たなかった藤原鎌足に、当時、最高の官職である「大織冠(だいしょくかん)」の地位を与えている。藤原鎌足は、あくまでも中大兄皇子をかげでささえる補佐的な役目をつらぬいたといえるだろう。