天武天皇 (てんむてんのう)
※ 大海人皇子(おおあまのおうじ)ともいう。
● 活やくした時代 630年?~686年 飛鳥時代(あすかじだい)
● 活やくしたこと
630年? 天武天皇が舒明天皇(じょめいてんのう)の子として生まれる。
名前は大海人皇子(おおあまのおうじ).。
兄は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ のちの天智天皇)である。
645年 兄の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ のちの天智天皇)が蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、大化の改新が始まる。
664年 大海人皇子が兄の中大兄皇子を助けて、政治を行う。
大海人皇子が冠位26階を定める。
668年 兄の中大兄皇子が天智天皇(てんじてんのう)になる。
大海人皇子が皇太弟になる。
671年 天智天皇の息子の大友皇子(おおとものおうじ)が太政大臣(だいじょうだいじん)になる。
大海人皇子は僧になって、吉野へ行く。
天智天皇(てんじてんのう)が死ぬ。
672年 壬申の乱(じんしんのらん)がおこる。
大海人皇子 対 大友皇子の天皇の地位をめぐる戦争
大海人皇子が勝利する。
673年 大海人皇子が天武天皇(てんむてんのう)になる。
681年 天武天皇が浄御原令(きよみはらりょう)をつくりはじめる。
天武天皇が息子の草壁皇子(くさかべのおうじ)を皇太子にする。
天皇とその皇族(こうぞく)たちによる政治を確立する。
682年 天武天皇が「古事記」 「日本書紀」の編集を始める。
684年 天武天皇が八色の姓(やくさのかばね)を決める。
八色の姓(やくさのかばね)
これまでの臣(おみ)、連(むらじ)などが最高としていて姓(かばね)を変えて、真人(まひと)を最上位とした。
686年 死去
● 人 物 評
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ のちの天智天皇)の死後におこった壬申の乱(じんしんのらん)は、大化の改新の立役者であった中大兄皇子にとって最大の汚点(おてん)であった。自分の弟と息子によるあとつぎあらそいである。死後におこったこととはいえ、中大兄皇子にとっては、信じられないことであったであろう。だが、兄の中大兄皇子を助けて政治を行ってきた弟の大海人皇子(おおあまのおうじ のちの天武天皇)にとって、自分こそが、兄の遺志(いし)をつぐあとつぎという思いがあったのであろう。事実、政治のあり方は中大兄皇子のやり方を引きつぎ、天皇中心の政治の確立に努めるのである。大和朝廷の中央集権化はこの二人の兄弟によって確立されたと言えるだろう。