平将門 (たいらのまさかど)
● 活やくした時代 903年~940年 平安時代(へいあんじだい)
● 活やくしたこと
903年 平将門が鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)の平良将(たいらのよしまさ)の次男として生まれる。
平良将(たいらのよしまさ)は高望王(たかもちおう)の子で、下総(しもうさ 千葉県)に大土地を所有する実力者であった。
918年 父の平良将(たいらのよしまさ)が亡くなる。
残された広大な土地を守るために朝廷の保証と官位が必要となり、平将門が京都にのぼる。
平将門が左大臣の藤原忠平(ふじわらのただひら)に仕える。
930年 官位につけず、故郷(こきょう)に帰る。
平将門の留守中に伯父(おじ)の平国香(たいらのくにか)に領地をすべてうばわれていた。
平将門は、仕方なく猿島郡岩井(さしまいわい 茨城県岩井市)に移り、そこの荒れ地を切り開き、自分の土地とする。
ここでも、平国香(たいらのくにか)の嫌がらせやじゃまを受け、対立するようになる。
935年 平国香(たいらのくにか)、平良兼(たいらのよしかね)、源護(みなもとのまもる)が連合し、突然、平将門をおそう。
平将門が、平国香(たいらのくにか)と源護(みなもとのまもる)の息子3人を破り、死亡させる
平将門が平良正(たいらのよしまさ)を破る。
936年 平将門が下野(しもつけ 栃木県)で平良正兼(たいらのよしかね)を破る。
937年 平将門が京都にのぼり、戦争の原因を述べ、戦争の罪を許される。
朝廷はこの戦争を一族のあいだの争いとした。
平良良兼(たいらのよしかね)が計略を使って平将門を破る。
938年 朝廷に不満を持つ興世王(おきよおう)たちと手を結ぶ。
平将門が国香の子の平貞盛(たいらのさだもり)を千曲川(ちくまがわ)で破る。
平将門が常陸国(ひたちのくに)の国府を攻める。下野国(しもつけのくに 栃木県)と上野国(こうずけのくに 群馬県)の国府を落とし、関東6か国一帯を支配する。
平将門が新皇(しんのう)を名のる。
朝廷は上を下への大混乱になる。
940年 朝廷が平将門の追討(ついとう)の命令を出す。
藤原忠史(ふじわらのただふみ)が征東大将軍として関東に向かう。
平貞盛(たいらのさだもり)、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)とが連合し、平将門に対抗する。
当初は平将門が優勢に戦うが、一進一退をくり返す。
平将門が追い風に乗った一本の矢にこめかみを射ぬかれ、戦死する。(38才)
その後、平将門の首は京都におくられ、参上河原(さんじょうがわら)でさらしものになる。
首はある夜、突然、空にまいあがり関東に向かって飛び帰ったと言われる。そして、
将門の首が落ちたところが東京都千代田区大手町の神田橋近くに落ちたとされる。
その場所が現在の将門の首塚(くびづか)である。
● 人 物 評
平将門はただ父からの領地を守りたかっただけなのかもしれない。ただ、この時代、朝廷は藤原一族に支配され、藤原一族とその関係者でなければ官位にはつけない状況であった。他の者たちは地方で自分の土地を広げ、力をつけるしかなかったのである。武士が発生したのもこのころである。武士の役目は、自分の土地を守ることにある。ただ、平将門の不幸は、親せきが将門の土地をねらっていた点であろう。親せきと朝廷とが結びついたとき、将門が自分の土地を守るために残された手は反乱しか残っていなかったのである。平将門は自分の領地に住む民衆にはとても優しかったという。平将門の欲深い親せきには怒りを覚える。