藤原頼通 (ふじわらのよりみち)
● 活やくした時代 992年~1074年 平安時代(へいあんじだい)
● 活やくしたこと
992年 藤原頼通が藤原道長(ふじわらのみちなが)の長男 として生まれる。
1003年 藤原頼通が元服(げんぷく)して正五位下(しょうごいのげ)をさずけられる。
1006年 藤原頼通が正三位(しょうさんみ)となり、公卿(くぎょう)の列に並ぶ。
1009年 藤原頼通が権中納言(ごんちゅうなごん)になる。
1013年 藤原頼通が権大納言(ごんだいなごん)になる。
1017年 藤原頼通が後一条天皇(ごいちじょうてんのう)の摂政(せっしょう)になる。
1019年 藤原頼道が関白(かんぱく)になる。
1028年 平忠常(たいらのただつね)の乱がおこる。
藤原頼通はおどろいて討伐軍をおくるが、乱をおさめるのに5年もかかることになる。
1037年 藤原頼通の養女の源子(げんし)が後朱雀天皇の中宮になる。
藤原頼道は、天皇の外祖父(がいそふ)になろうとするが、皇子が誕生しない。
1039年 比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)の僧兵が藤原頼通の屋敷に火を放つ。
1051年 藤原頼通の娘の寛子(かんし)が後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)の皇后(こうごう)天皇の正式な妻)になる。
藤原頼道は今回も天皇の外祖父(がいそふ)になろうとするが、皇子が誕生しない。
1053年 藤原頼通が平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)を建てる。
1067年 藤原頼通が関白をやめる。
1068年 後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が即位(そくい)する。
藤原氏と親せき関係にない後三条天皇(ごさんじょうてんのう)は政治の実権を藤原氏からとりもどうそうとする。
1072年 藤原頼通が出家(しゅっけ)する。
弟の藤原教通(ふじわらののりみち)に実権をゆずるが、藤原教通(ふじわらののりみち)も天皇と親せき関係になれず、藤原教通(ふじわらののりみち)の代で摂関政治(せっかんせいじ)がとだえることになる。
1074年 病死する。
● 人 物 評
藤原道長(ふじわらのみちなが)が望月の歌を歌ったのは1018年のことである。藤原氏の全盛(ぜんせい)が続いていることを歌った歌であるが、その子藤原頼通の代にはその全盛の満月が早くも欠け始めることになる。藤原氏は天皇家と親せきとなり、藤原氏と関係のある幼い皇子を天皇にすることで、天皇の外祖父(がいそふ)となって、藤原氏が実権をにぎっていた。だが、藤原頼通は天皇の外祖父(がいそふ)になることができず、結局、藤原氏と関係がうすい後三条天皇が天皇になることになる。その上、後三条天皇は、政治の実権を藤原氏からうばい、天皇の手にもどうそうとした。これ以後、藤原氏の勢力はおとろえていくことになる。藤原道長の歌った満月は、かけていくのもはやかった。