後三条天皇 (ごさんじょうてんのう)
● 活やくした時代 1034年~1073年 平安時代(へいあんじだい)
● 活やくしたこと
1034年 後三条天皇が後朱雀天皇(ごすざくてんのう)の第2皇子として生まれる。
名は尊仁(たかひと)親王。
1045年 後朱雀天皇(ごすざくてんのう)が病死する。
兄の親仁親王(ちかひとしんのう)が即位(そくい)し、後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)になる。
尊仁(たかひと)親王は皇太弟(こうたいてい 次の天皇になる弟のこと)になる。
1068年 後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)が病死する。
尊仁(たかひと)親王が即位し、後三条天皇になる。
藤原頼通(ふじわらのよりみち)にかわって、弟の藤原教通(ふじわらののりみち)が関白(かんぱく)になる。
摂関家(せっかんけ)に関係なく、後三条天皇が直接を行う政治が実現する。
1069年 後三条天皇が荘園整理令(しょうえんせいりれい)を出す。
基準にあわない荘園を整理し、貴族の財産をへらし、力をおさえようとした。
1070年 後三条天皇が絹布(けんぷ)の制を決める。
1072年 後三条天皇が公定升(こうています)を決める。
公定升(こうています)
米や水のはかる升(ます)の大きさを一定にする。
後三条天皇が位を第1皇子の貞仁親王(さだひとしんのう)にゆずる。
貞仁親王(さだひとしんのう)が白河天皇(しらかわてんのう)になる。
藤原氏による摂関政治(せっかんせいじ)が終わりを告げる。
1073年 病死(40才)
● 人 物 評
運命とは分からないものである。藤原頼通(ふじわらのよりみち)は自分の娘を後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)のきさきとして、藤原氏と関係のある皇子の誕生(たんじょう)を願った。だが、結局、藤原氏と関係のある皇子は誕生(たんじょう)せず、まったく関係のない後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が天皇になる。これを機に、藤原氏はその力を失っていくことになる。そして、摂関政治(せっかんせじ)も終わりをむかえることになる。運が悪かったとはいえ、藤原氏の運命が、藤原氏の娘が産む皇子にかかっていたというのは皮肉なことである。