源義経 (みなもとの よしつね)
※ 幼名 牛若丸(うしわかまる)
● 活やくした時代 1159年~1189年 平安時代
● 活やくしたこと
1159年 源義朝(みなもとの よしとも)の9男として生まれる。
1159年 平治の乱(へいじのらん)がおこる。
1169年 僧にするために京都の鞍馬寺(くらまでら)に入れられる。
伝説では、このころに百人力の弁慶(べんけい)に出会う。
1174年 鞍馬寺からにげ出し、東北地方の藤原秀衡(ふじわらの ひでひら)のもとにいく。
1180年 兄の源頼朝(みなもとの よりとも)が伊豆(いず)で兵をあげると頼朝のもとにかけつけ、頼朝に会う。
1184年 源頼朝の命令で、兄の源範頼(みなもとの のりより)とともに平氏の軍を追い、戦いをつづける。(源平合戦)(げんぺいがっせん)
平氏(へいし)を京都から追いはらう。
一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)で平氏をうちやぶる。
平氏の軍の背後の急な坂を馬でかけおり、奇襲(きしゅう)したのは有名な話
1185年 屋島の戦い(やしまのたたかい)で平氏をうちやぶる。
1187年 藤原秀衡(ふじわらの ひでひら)をたよって、東北地方の平泉(ひらいずみ)にのがれる。
1189年 藤原秀衡の子の藤原泰衡(ふじわらの やすひら)のうらぎりにあい、自害する。(31才)
● 人 物 評
源義経(みなもとのよしつね)は悲劇(ひげき)の英雄(えいゆう)と言われる。戦争の天才で、若くてハンサムとくれば、だれでも源義経をひいきしたくなる。逆にその源義経をうった兄の源頼朝(みなもとの よりとも)は、いいようには言われないことであろう。確かに、源義経は戦争の天才であった。どの戦いも意表をつく作戦で平氏をうちやぶっている。だが、こと政治に関係したことになると、その天才ぶりがあらわれない。源頼朝のゆるしもえないで、検非違使(けびいし)に任命されたり、平氏の娘を妻にしたりと、少し考えれば、源頼朝がおこるであろうことがわかっていない。源義経にとっての悲劇(ひげき)は、政治的なセンスがなかった点であろう。