北条時宗 (ほうじょう ときむね)
● 活やくした時代 1251年~1284年 鎌倉時代
● 活やくしたこと
1251年 北条時頼(ほうじょう ときより)の子として生まれる。
1263年 父の北条時頼が死ぬ。
1264年 連署(れんしょ)(執権を助けて政治をする役目)につく。
1268年 中国(元)(げん)のフビライ=ハンからの使者がくる。
執権(しっけん)(将軍を助ける最高の役職)になる。
1271年 九州の武士に戦争の準備をさせる。
1272年 母の違う兄の北条時輔(ほうじょう ときすけ)を反乱の疑いで殺す。
1274年 元寇(げんこう)・・・文永の役(ぶんえいのえき)がおこる。
フビライの命令で、中国(元)が日本の博多(はかた)に攻めこんでくる。
暴風雨により、中国(元)の船がしずみ、日本は救われる。
1275年 中国(元)の使者の杜世忠(とせいちゅう)を鎌倉で殺す。
1276年 博多湾(はかたわん)に石塁(せきるい)(石の防御壁のこと)をつくる。
1281年 元寇(げんこう)・・・弘安の役(こうあんのえき)がおこる。
フビライの命令で、中国(元)が再び日本の博多(はかた)に攻めこんでくる。
先と同じく大暴風雨により、中国(元)の船がしずみ、日本は救われる。
中国(元)から土地を獲得したのではないため、武士に土地を恩賞として与えることができない。
借金をして武器を用意した武士は鎌倉幕府に不満を持つようになる。
1284年 死 去(34才)
1297年 徳政令(とくせいれい)を出す。
● 人 物 評
北条時宗は、外国からの攻撃にはじめて立ち向かった人物である。それも、日本の何十倍もある大国の中国(元)を敵にしてである。どう考えても、日本にとって勝てる戦いではない。自分の判断が、日本をほろぼすことになるかもしれない。その思いは、北条時宗にとって、相当な重圧であったことだろう。暴風雨という幸運もあったが、北条時宗の強い精神力のおかげで、今日の日本があると言ってもいいであろう。中国(元)のきょうはくに負けることなく、武士をまとめ上げ日本を守った北条時宗の精神力をたたえたい。北条時宗の不幸は、この元寇(げんこう)の後しまつであったろう。武士に恩賞を渡したくても、その土地がない。そのジレンマが北条時宗の命をうばったのであろう。この元寇(げんこう)が、鎌倉幕府がほろびる原因の1つになったのは皮肉である。