毛利元就 (もうり もとなり)
● 活やくした時代 1497年~1571年 戦国(室町)時代
● 活やくしたこと
1497年 安芸の国(あきのくに 広島県)の毛利弘元(もうりひろもと)の
次男として生まれる。幼名を松寿丸(しょうじゅまる)という。
1500年 兄の毛利興元(もうりおきもと)が郡山城(こおりやまじょう)をつぎ、
毛利家の当主となる。。
毛利元就は猿懸城(さるがけじょう)にはいる。
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まもなく、毛利元就の父母が病死する。
毛利元就は重臣の井上元盛(いのうえもともり)に領地をうばわれ、
苦しい生活を送る。井上氏のわがままがいっそうひどくなる。
1523年 兄の毛利興元(もうりおきもと)、その子幸松丸(こうしょうまる)が病死する。
毛利元就が郡山城にはいり、毛利家の当主になる。
1537年 毛利元就が長男の毛利隆元(もうりたかもと)を大内氏の人質として
山口に送る。 → 大内氏の家臣となる。
このころ、毛利元就は、山陰(さんいん)の尼子氏(あまこし)と山陽
(さんよう)の大内氏の2大国にはさまれていて、いつ、どちらにほろぼ
されるかわからない状態であった。
1540年 尼子晴久(あまこはるひさ)が3万の大軍で毛利氏の郡山城を取り囲む。
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1541年 大内義隆(おおうちよしたか)の家臣の陶晴賢(すえはるかた)の援軍(えんぐん)
が郡山城に到着し、尼子晴久の軍を打ち破る。
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1543年 逆に大内義隆(おおうちよしたか)が尼子氏の月山富田城(がっさんとだじょう)を
取り囲む。
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大内氏の軍は 月山富田城(がっさんとだじょう)を落とせず退却(たいきゃく)する。
1544年 毛利元就の3男の隆景(たかかげ)が小早川氏(こばやかわし)をつぎ、
小早川隆景(こばやかわたかかげ)と名のる。
1547年 毛利元就の次男の元春(もとはる)が吉川氏(きっかわし)をつぎ、吉川元春
(きっかわもとはる)と名のる。
【毛利の両川(りょうせん)】
毛利家を支え、発展させる存在として毛利元就は二人の息子
を小早川氏(こばやかわし)と吉川氏(きっかわし)に養子に入
れた。息子の吉川元春(きっかわもとはる)と小早川隆景(こば
やかわたかかげ)は毛利氏の盾(たて)となって支えた。この
2氏の「川」をとって毛利の両川と呼んでいる。
1550年 毛利元就がわがまま勝手をしていた井上元盛(いのうえもともり)とその
一族30人を殺す。
1551年 大内義隆(おおうちよしたか)が家臣の陶晴賢(すえはるかた)に暗殺される。
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毛利元就が陶晴賢(すえはるかた)と対立する。
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1555年 厳島(いつくしま)の戦いがおこる。
【厳島の戦い】
毛利元就と陶晴賢(すえはるかた)との決戦。
毛利元就が陶晴賢の2万の大軍を厳島(いつくしま)の小城
におびき寄せ、不意打ちをし全滅(ぜんめつ)させた。陶晴賢は
戦死し、毛利元就が勝利する。
1557年 毛利元就が大内氏をほろぼし、周防(すおう)と長門(ながと 山口県)を支配する。
【毛利の3本の矢の教訓(きょうくん)】
毛利元就は長男の毛利隆元(もうりたかもと)、次男の吉川
元春(きっかわもとはる)、3男の小早川隆景(こばやかわたか
かげ)を集め、矢を折るようにいった。1本の矢はすぐに折れた
が、3本の矢を折ることはできなった。このことから、一人一人
は弱いが3人寄れば強くなる。3人の兄弟が協力しあって毛利
家を支えるようにと教えた。
1566年 毛利元就が尼子氏の月山富田城(がっさんとだじょう)を取り囲む。
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尼子氏が毛利元就に降伏(こうふく)する。
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毛利元就が中国地方10か国の戦国大名となる。
1571年 病死する(75才)
● 人 物 評
毛利元就は確かにすぐれた人物であった。大内氏(おおうちし)や尼子氏(あまこし)の2大国にはさまれた弱い毛利家を一代のうちに中国最大の戦国大名にしたからである。だが、その要因には息子にめぐまれたという点もあるであろう。「勇」の吉川元春(きっかわもとはる)、「智」の小早川隆景(こばやかわたかかげ)、「仁」の毛利隆元(もうりたかもと)の3人に支えられたからこそ、毛利家をここまで大国にすることができたのである。毛利元就の死後、豊臣秀吉の力が毛利家にのびてくるが、この時も小早川隆景が身をもって毛利家を守り通している。結局、毛利家は明治時代までその血筋(ちすじ)を残すことができた。すべては「毛利の両川(りょうせん)」のおかげであろう。「兄弟は仲良く力を合わせて・・・」 現代にも通じるよい教訓(きょうくん)であろう