武田信玄 (たけだしんげん)
● 活やくした時代 1521年~1573年 戦国(室町)時代
● 活やくしたこと
1521年 甲斐の国(かいのくに 山梨県)の守護の武田信虎(たけだのぶとら)の
長男として生まれる。幼名(ようみょう)は太郎。
1533年 上杉朝興(うえすぎともおき)の娘と結婚する。
1536年 16才で元服(げんぷく 成人すること)し、晴信(はるのぶ)と名のる。
1541年 武田信玄が父の武田信虎を駿河の国(するがのくに 静岡県)に追放する。
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以後、駿河の国(するがのくに 静岡県)の大名の今川義元(いまがわよしもと)
が武田信虎の身をあずかる。
1542年 武田信玄が信濃の国(しなののくに 長野県)の豪族(ごうぞく)の諏訪頼重
(すわよりしげ)を滅ぼす。
「人は城 人は石垣(いしがき) 人は堀(ほり)
情けは味方 あだは敵なり」
領地の家臣や農民のための政治を行っていれば、強固
(きょうこ)な城や砦(とりで)をつくる必要はない。家臣と
農民こそが自分にとっての城である。武田信玄はその
ような心がまえで政治を行った。
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武田信玄は領地の産業や経済、農業を発展させた。
洪水を防ぐために「信玄堤(しんげんづつみ 堤防のこと)
をつくった。
1547年 武田信玄が「信玄家法(しんげんかほう)」を決める。
※ 甲州法度(こうしゅうはっと)ともいう。
【信玄家法 (しんげんかほう)】
武田の家臣が守らなければならない法律
1550年 武田信玄が信濃の国(しなののくに)の豪族の小笠原長時(おがさわらながとき)
をやぶる。
1553年 武田信玄が信濃の国(しなののくに)の豪族の村上義清(むらかみよしきよ)
をやぶる。
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小笠原長時(おがさわらながとき)、村上義清(むらかみよしきよ)が越後の国
(えちごのくに 新潟県)の大名の上杉謙信(うえすぎけんしん)をたよって逃げる。
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武田信玄と上杉謙信が川中島(かわなかじま)で戦う。 第一次川中島の合戦
1554年 大名の武田信玄、今川義元(いまがわよしもと)、北条氏康(ほうじょううじやす)の
3人が同盟を結ぶ。(三国同盟)
1555年 武田信玄と上杉謙信が川中島(かわなかじま)で戦う。 第二次川中島の合戦
1559年 武田信玄が出家(しゅっけ 僧になること)して「信玄」となる。
1560年 桶狭間(おけはざま)の戦いがおこる。
織田信長(おだ のぶなが)に今川義元が討たれ、三国同盟がくずれる。
1561年 武田信玄と上杉謙信が川中島(かわなかじま)で戦う。 第四次川中島の合戦
この戦いの最中 武田信玄と上杉謙信との一騎打ち(いっきうち)がおこる。
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上杉謙信と武田信玄との戦いに決着はつかなかったが、
武田信玄が甲斐の国と信濃の国の2カ国をほぼ支配する。
1568年 武田信玄が今川義元の子の今川氏真(いまがわうじざね)を破り、駿河の国
(するがのくに 静岡県)を支配する。
1572年 武田信玄が足利義昭(あしかがよしあき)の命令で3万の兵を指揮して
上洛(じょうらく 京都へ向かうこと)を開始する。
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三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)
武田信玄が織田信長(おだのぶなが)、徳川家康(とくがわいえやす)の
連合軍を打ち破る。
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1573年 上洛(じょうらく 京都に向かうこと)の途中で病死する。(53才)
● 人 物 評
【風林火山(ふうりんかざん)の意味】
疾如風 … 疾(はや)きこと風の如(ごと)く
徐如林 … 徐(しず)かなること林の如(ごと)く
侵掠如火 … 侵掠(しんりゃく)すること火の如(ごと)く
不動如山 … 動かざること山の如(ごと)し
武田信玄は、戦国時代の名政治家であり、名将軍であるといえる。後に江戸幕府を開くことになる徳川家康(とくがわいえやす)も敵である武田信玄を尊敬し、武田信玄の生み出した制度や戦術、兵法などをそのまま利用している点がある。武田信玄が53才で病死することなく、京都への上洛を果たしていたら、たぶん、後の世は大きく変わっていたであろう。残念なことに武田氏は武田信玄の死後、子の武田勝頼(たけだかつより)の代に滅びることになる。1582年 のことであった。