足利義昭 (あしかが よしあき)
● 活やくした時代 1537年~1597年 室町~安土桃山時代
● 活やくしたこと
1537年 12代将軍足利義晴(あしかがよしはる)の子として生まれる。
1542年 足利義昭が奈良の興福寺(こうふくじ 奈良県)に入り、僧(そう)になる。
1565年 兄の13代将軍足利義輝(あしかがよしてる)が家臣の三好長慶
(みよしながよし)と松永久秀(まつながひさひで)に暗殺される。
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足利義昭は身の危険を感じて興福寺(こうふくじ)を抜け出し、近江
(おうみ 滋賀県)にのがれる。
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1566年 足利義昭が還俗(げんぞく 僧をやめること)する。
足利義昭が越前(えちぜん 福井県)の朝倉氏(あさくらし)をたよって、のがれる。
1568年 明智光秀(あけちみつひで)が織田信長の家臣となり、足利義昭
(あしかがよしあき) と織田信長(おだのぶなが)をひき会わせる。
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足利義昭が織田信長とともに京都に入り、室町幕府(むろまちばくふ)
の第15代将軍になる。
1569年 足利義昭と織田信長の関係が悪くなる。
1570年 足利義昭が織田信長から出された5か条の条件に従う。
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織田信長が実権をにぎり、足利義昭の将軍位は名ばかりで、
政治から完全にしめだされる。
【織田信長からの5か条】
1 足利義昭が出す文書には織田信長のそえ書きをつけること
2 足利義昭が今までに出した命令は取り消すこと
3 幕府に忠義のあった者にあたえる恩賞(おんしょう)で、
適当な土地がないときには、織田信長の領地(りょうち)
から分け与えること
4 天下の政治は織田信長にまかせた以上、足利義昭が
いちいち口をはさまないこと
5 朝廷に対する儀式(ぎしき)は、足利義昭が手抜かりなく
行うこと
1571年 足利義昭は北の浅井氏(あざいし)、朝倉氏(あさくらし)、西の毛利氏
(もうりし)、東の武田氏(たけだし)とひそかに同盟し、織田信長包囲
作戦にでる。
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1573年 足利義昭が京都で織田信長に反乱をおこすが敗れる。
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足利義昭が織田信長と仲直りする。
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足利義昭が再び織田信長に反乱をおこすが敗れる。
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織田信長が足利義昭を京都から追放し、室町幕府をほろぼす。
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足利義昭は西の毛利氏(もうりし)をたよって、逃げのびる。
1587年 足利義昭が大阪で豊臣秀吉(とよとみひでよし)の保護を受けて、
1万石を与えられる。
足利義昭が出家(しゅっけ 僧になること)する。
1597年 大阪で死去(61才)
● 人 物 評
足利義昭にとっての不幸は、室町幕府(むろまちばくふ)の勢力がなくなっていた点であろう。9代将軍の足利尚久(あしかがよしひさ)以後の将軍で室町幕府の館(やかた)で亡くなった者は一人もいないという状態である。そんな中、足利義昭は、 室町幕府の勢力を取りもどそうと孤軍奮闘(こぐんふんとう)し、織田信長包囲網をつくりあげた点はすごいといえるであろう。ただ、京都に入る大名が織田信長でなく、武田信玄(たけだしんげん)であっても毛利元就(もうりもとなり)であっても、足利義昭は織田信長と多少の違いはあってもほとんど同じような扱いを受けたのではないだろうか? 飾り(かざり)物の将軍ほどむなしいものはない・・・・。