織田信長 (おだ のぶなが)
● 活やくした時代 1534年~1582年
室町~安土桃山時代
● 活やくしたこと
1536年 愛知県の大名の織田信秀(おだ のぶひで)での子として生まれる。
常識では考えられない行動をするので、「うつけ者(あほう)」とよばれる。。
弟の織田信行(おだ のぶゆき)と対立し、信行を殺す。
1560年 桶狭間(おけはざま)の戦い
織田信長が奇襲(きしゅう)で静岡県の大名の今川義元(いまがわ よしもと)
を戦死させる。
1567年 岐阜県の大名の斉藤氏(さいとうし)をほろぼす。
「天下布武」(てんかふぶ)(天下を武力でおさめる)を発表する。
1568年 足利義昭(あしかが よしあき)とともに京都に入り、足利義昭を室町幕府
(むろまちばくふ)の第15代将軍にする。
楽市楽座(らくいちらくざ)(商人から税を取らない→商業が発達する)を行う。
1569年 ポルトガルの宣教師(せんきょうし)フロイスとあい、キリスト教を広めることをゆるす。
1570年 姉川(あねがわ)の戦い
滋賀県の大名の浅井長政(あざい ながまさ)をやぶる。
1571年 比叡山(ひえいざん)の延暦寺(えんりゃくじ)を焼きうちし、数千人の僧を殺す。
1573年 足利義昭を京都から追放し、室町幕府をほろぼす。
浅井長政をほろぼす。
1575年 長篠(ながしの)の戦い
徳川家康とともに、鉄砲(3000丁)を使って、山梨県の大名の武田勝頼(たけだ
かつより)をうちやぶる。
1575年 豊臣秀吉(とよとみ ひでよし) → 中国地方
柴田勝家(しばた かついえ) → 北陸地方
明智光秀(あけち みつひで) → 山陰地方
滝川一益(たきがわ かずます) → 中部・関東地方
などの有力な家臣を大将として、各地におくり、全国統一に向かう。
1576年 安土城(あづちじょう)をつくる。
1580年 10年間戦い続けた大阪の石山本願寺(いしやまほんがんじ)となかなおりする。
1582年 武田勝頼をほろぼす。
1582年 6月2日 本能寺(ほんのうじ)の変 → 死 去(49才)
明智光秀(あけち みつひで)の反乱で暗殺される
● 人 物 評
織田信長は、鉄砲の大量使用、キリスト教の利用、城の天守閣(てんしゅかく)などの常識にとらわれない発想のできるアイデアマンである。だが、自分の考えが中心で家臣には自分の考えをおしつけることが多かったようである。自分に反抗する者は絶対に許さない。その例が延暦寺(えんりゃくじ)の焼きうちによる数千人の殺害であろう。このような行動は全国統一が近づくにつれて多くなったようである。明智光秀(あけち みつひで)もそのような織田信長の行動に、おそれおののき、精神的に追いつめられたための反乱ではなかったのだろうか?織田信長をみているとワンマン社長の孤独(こどく)を感じる。織田信長の功績は、全国統一へのみちしるべをつくった点であろう。